日本サッカーの父
ウ・チョーディン
(著書『How To Play Association Football』より)


 国際サッカー連盟の世界ランキング46位(2014年6月現在)の日本は、今や押しもされぬアジアの強豪ですが、競技としての歴史がまだ浅かった20世紀初旬の大正時代においては、まったくの後進国。当時はヘディングやサイドキックといった基本的な技術さえ知られていませんでした。

 そんな時代、日本のサッカーは、ひとりのビルマ人指導者の近代的戦術伝授によって飛躍的な向上を遂げていったのです。

 指導者の名は、ウ・チョーディン。

 2007年、日本サッカー協会はこのウ・チョーディンに対して殿堂入りを決定しました。これによって彼の名は、日本サッカー史に刻まれることとなりました。ただ、功績は称えられたものの、その存在は幻の伝説に近く、一般には全くと言っていいほど知られていません。

 1900年生まれのウ・チョーディンは、1920年頃に英国植民地下のビルマから来日した東京高等工業学校(現東京工業大学)の留学生でした。1924年まで日本に滞在した彼の名前は、チョウ・ディン(KYAW DIN)、あるいはモン・チョウ・ディン(「モン」は年少者の敬称「マウン」の別表記)として記録されています。一般的な知名度は低くとも、彼の功績については、スポーツ関連の古い書物や雑誌において断片的に記されており、その内容はサッカー史に詳しいウェブサイトに掲載されています(「賀川サッカーライブラリー」、「日本サッカー・ブック・ガイド」)。まずはこうした日本側の資料の中から、彼の功績についてたどっていきます。

 留学生として来日した彼は、日々、工業技術を学ぶ傍ら、グランドでは陸上競技(サッカーではない!)の練習に励むスポーツマンでした。ある日、いつも通り練習をしていたら、同じグランドで日本のサッカーチームが練習をしていました。たまたまその場に居合わせただけでしたが、どうやらその様子に「見かねて」声をかけてしまったようです。彼は、当時のミャンマーサッカーでは当たり前のことをアドバイスしただけでしたが、それは当時の日本にとって、目新しいことばかり。しかも、そのアドバイスした相手というのは、何と国際試合である第五回極東選手権大会(1921)に出場する日本代表チームだったのです。

 彼が教えた技術は、イギリス(当時ミャンマーの宗主国)仕込みのものではありましたが、それは「イングランド」式ではなく、英国内で対抗する「スコットランド」の戦法。実際、第一次世界大戦中、従軍先の中東において行われた試合で、彼は英国チームを破ったそうです(どのような試合かは詳細不明だが、「イングランド」対「英領ビルマ」戦と思われる)。

 そんな実力の持ち主であったことから、早稲田大学高等学院(早高)のチームのコーチを勤めることとなり、1923年の全国大会ではその早高が優勝したのです。そして、それがウ・チョーディンの指導の成果であることが知れ渡ると、コーチ依頼が殺到するようになりました。

『How To Play Association Football』
(早稲田高等学院フットボールコーチャー、
チョーディン著、大正12年[1923年]8月23日発行)

 しかし、彼はあくまでも工業技術を学ぶ留学生。当然対応しきれません。そこで彼は、当時の日本においては画期的とも言えるサッカー指導書『How To Play Association Football』を著したのです(英語で書かれたものを仲間や生徒たちが協力して日本語に翻訳して出版)。そこに記された様々な技術の解説は、記述のみならず、写真と図が多用されており、とにかく具体的かつわかりやすい内容で、サッカーを志す者にとってはまさにバイブルとなったのです。

 そして1923年9月。日本は関東大震災という大災害に見舞われます。そして、ウ・チョーディンにとっては、これがまたひとつの転機となりました。

 震災によって留学先の東京高等工業学校は校舎が倒壊し、彼は学業中断を余儀なくされてしまいました。しかし、かえってこのことが、それまで対応しきれなかったコーチ依頼を可能にするものとなったのです。こうして彼はサッカー指導に専念することとなり、コーチとして、驚異的な全国巡回を開始。日本各地で次々と若い選手たちを精力的に直接指導していきました。日本サッカー界における初期の大選手や名監督たちは、この一大技術伝授巡業の中で、まさにウ・チョーディンによって育てられていったのです。

 彼は、当時の日本にはまだ存在しなかったさまざまなキックのテクニック、ヘディング、細かいパスでつないでいく戦術や試合中の駆け引きなどを教えていきました。その指導方法は、「先輩がただ怒鳴るだけだった」という当時の日本人的手法とは異なり、「理路整然」としたものでした。

 キッキングに力学的な説明を加えたり、またシュートの撃ち込みには三角法を用いたりして、論理的に指導を展開していったのです。こうした彼の新しい指導によって、サッカーとは「考えることのできるスポーツ」であるとの新たな認識が広まり、プレーに対する原因と結果を追求する科学性を加えた練習方法が進歩し、さまざまな技術が飛躍的に向上したとされています。

 ウ・チョーディン自身は1924年に帰国します。しかしその後、それまで弱小だった日本は、まさに彼の指導を受けた選手たちの活躍によって、1927年の第八回極東選手権大会では、国際大会において初めて勝利を収めるまでになりました。そしてさらに、1930年の第9回の大会では、ついに初優勝という躍進を遂げたのです。

 サッカー自体を日本に伝えたのは欧米人です。しかし、その技術について手取り足取り細かく教えてくれたウ・チョーディンこそ、日本にとっては、真の「サッカーの父」というべき偉人。ミャンマーへ帰国した後、彼は本国でどのような活動をしたのでしょうか。この部分について、日本側の資料には、いずれも「不明」としか記されていません。

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