8月
※1チャット=実勢レート約1.1円(公定は20円)
音楽テープ(TOYOTA)=105チャット
音楽テープ(HITACHI)=120チャット
ようやく個人旅行が可能となりました。いったんバンコクへ行き、そこでミャンマービザとヤンゴン行きのチケットを入手します。のちにバンコクのミャンマー大使館ではビザは即日発給されるようになりますが、この時は数日かかったので、その間、メーソートを再訪しました。
ミャワディー
日本を発つ前、都内の大学祭で、昨年訪問したメーソートのメータオ・クリニックの様子をビデオで紹介する機会があり、支援金を募ったところ2万円以上集まったので、それを携えてクリニックを再訪しました。そして昨年実現しなかったミャンマー側のミャワディーへの国境越えに再挑戦。この年放送されていたNHKスペシャル「アジアハイウェイ」ではここを通過する展開になっていたので、国境検問所で訊ねたところ、外国人も可となっていました。入国手続きは至極簡単で、料金は渡し船代の36バーツでした。
ムーイ川を渡って入国。ただ残念なことにミャワディーから先へは行けず、検問所の閉まる時間までに戻らなければなりません。渡し舟がミャワディーに着くと、さっそく”親切な男性”がやって来て町を案内してくれました。案内というより緩い同行という感じで、体の良い監視でした。
1980年代、P.ニューマンの映画「ハスラー」が20年以上も経って続編が制作されるなどして日本でもブームとなったビリヤード。タイやカンボジアなどでもこれに興じる若者の姿をよく見かけたが、閉鎖的体制下のミャンマーにそのような雰囲気はなかった。しかし国境の町ミャワディーは、ミャンマー政府の統制はあまり利いていないせいか、ちょっと別世界。厳しい検閲を通過せずお蔵入りした歌謡曲のMTVもここでは流通した。
ヤンゴン
バンコクへ戻ってUB(ミャンマー航空)でヤンゴンへ。往復で8000バーツ(1バーツ=4.2円)でした。当時、成田-バンコク間の格安チケットは、エアインディアやイラク航空が6万円台、ユナイテッド航空で7万円台だったので、ヤンゴン行きは格安でも10万円以上かかる時代でした。
そんなミャンマーの個人旅行は解禁されましたが、同時に国内でしか通用しない外貨兌換券(FEC)が導入され、米ドル300ドルの強制両替が始まりました。FECは米ドルと等価が建前ですが、それは公定レートでの両替の場合。実勢レートすなわち闇レートは、当時1ドル=90チャットくらいでしたが、FECは80チャット以下にしかなりませんでした。
スーレーパヤーから見たマハーバンドゥラ通り
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
スーレーパヤー周辺
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
ボーヂョーアウンサン通り
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アノーヤター通り×パヤー通りの歩道橋から
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
ボースンペッ通りミドルブロック。
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
アノーヤター通り×32th通り
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
通りをはさんで市庁舎の隣にある現エーヤワディ銀行。現在とあまり変わらぬ光景だが、この当時は労働力および移民省(department of manpower and immigration)の庁舎。首都移転による払下げは、結果として、英国統治時代の歴史的建造物(Rowe & Co. department store)としての保全につながった。
※写真をクリックすると、28年後(2019年)の状態に。
バガン
ヤンゴン~ターズィーを列車で。ターズィーからは路線バスや小型トラックでバガンを目指しました。途中、メイッティラーとチャウッパダウンで乗り換え。陸路でのバガンへの移動はとても時間がかかりました。
メイッティラー
交通の要衝メイッティラー。ヤンゴンから北上する幹線道路はこの町で3方面(マンダレー、バガン、タウンヂー)に分かれます。バガンからの帰途、立ち寄りました。
ピィー
バスでヤンゴンからピィーへ。