ミャンマー人アーティスト来日公演小史
(※このコーナーで掲載したデータは、公演などを目的した来日についてのみです。映画撮影や私的な観光などについては対象外としました。)
ミャンマー人歌手の来日公演は、アジア音楽に関心のある人の間でも、その実態はおそらくほとんど知られていないでしょう。
2020年4月現在、これまでどれくらいの歌手や演奏家などのアーティストが来日して公演を行ったのでしょうか。このウェブサイトでの大雑把な調査だけで、150人以上が来日し、開催された公演は50回以上で、最も盛んだった2010年は8回だったことが確認されています。
これほどの規模でありながら、まったくと言っていいほど知られていない理由は至極簡単。そのほとんどがミャンマー人コミュニティー内のイベントだからです。
■コミュニティー内で初の来日公演(1996年)
ミャンマー人コミュニティーがひとつのコミュニティーとして体をなすようになったのは、1991年と考えて良いでしょう(「リトルヤンゴンの誕生」参照)。この頃からダヂャン(水祭り)などの伝統行事がイベントととして行われるようになってコミュニティーの活動が盛んになり、1990年代後半には、本国からアーティストを招聘しての来日公演が実現します。それが、1996年7月に開催された「TOKYO-JAPAN ギタープエドー(音楽祭)」です。
1996年というのは、本国ミャンマーでは軍時政権が対外的なイメージアップを期待した「観光年(Visit Myanmar Year 1996)」であったため、歌手たちにとっては比較的出国しやすい年でした。「TOKYO-JAPAN ギタープエドー(音楽祭)」に先立つ5月には、福岡で開催された日本のアジア音楽祭への参加で、超人気ロックバンドのIron Cross(アイロンクロス)が初来日を果たし、TVQ九州放送によってテレビ中継もされました。
しかし1997年から軍政の人権侵害を非難するアメリカの経済制裁が始まり、そうした政治状況の中でアーティストの出国が難しくなりました。その一方で、活動がどんどん拡大している日本のミャンマー人コミュミティーでは、本国からの歌手招聘が試みられます。
1999年にはメースウィ、キンマウントー、ゾーウィントゥッなどのトップスターを集めた「SUPER STAGE SHOW」という豪華来日公演が企画され、5月2日開催ということでコミュニティー内で大きく宣伝されました。しかし、本国の軍事政権は歌手たちの出国を許可せず、結局公演は実現しませんでした。その一方で約3週間後の5月下旬、政府肝いりのイベントとして「日本・ミャンマー伝統文化友好コンサート」が東京で開催され、大スターたちが大挙来日。1999年は、文化的なイベントに、当時の緊張した政治状況が反映された年となりました。
■コミュニティー内の来日公演最盛期(2001~2011年)
こうした閉塞的な状況の突破口となったのが、2001年11月の「メースウィ日本単独公演」です。
1996年以降の状況を見てみると、来日公演が全くなかったわけではありません。メースウィ公演の前までにミャンマー人の人気歌手ムンアウンが来日しています。しかし、これは北欧のノルウェーからの来日で、ミャンマーからではありません。ノルウェーは、ムンアウンが政治的な理由で亡命した地。ゆえに来日が可能だったのです。祖国から歌手を招聘できない閉塞状況の中で来日したムンアウン。その歌声に人々は大喜びし、公演は大盛況。2001年までの5年間で3度も来日してミャンマー人たちを大いに元気づけました。
メースウィ公演は、こうした中でようやく実現した本国から来日公演でした。この2001年頃というのは、ミャンマー人コミュニティーの最盛期です。さまざまな活動が軌道に乗ってどんどん拡大し、活気に満ち溢れていました。そんな時期、メースウィ公演が実現したことによって、コミュニティー内では本国からの歌手招聘の機運が盛り上がります。そしてこの後、2011年までの約10年間、途中、三者共同宣言による摘発という苦境にあっても、コミュニティー内で盛んに来日公演が催されます。2011年以降も公演は開催されていますが、この10年間ほどの情熱はもはやありませんでした。
公演の実現に動いたのは、ミャンマー人コミュニティーという枠組みの中で活動している民族的あるいは政治的なグループ、あるいは料理店や輸出入などのビジネスに従事しているコミュニティー内の「有名ミャンマー人」といった人たち。発起人を中心に人脈や派閥などを生かし、さまざまな人たちが協力し合って公演を作り上げていきました。
来日公演のほとんどは、赤字です。そもそも来日公演は金銭的な利益のために開催するものではありません。コミュニティー内の楽しみです。この当時、東京のミャンマー人コミュニティーでは、その大半が超過滞在の人たちでした。さまざまな事情を抱えて日本で生活する人たちにとって、人気スターたちの来日公演は、帰れぬ本国を感じるかけがえのない楽しみとなっていたのです。また、本国のスターたちにとっても、規制の大きい状況下にある本国からの貴重な出国機会。そして異国の地で暮らす同胞たちを歌で励ますことに大きな意義を感じていたのです。ミャンマーの人たちにとって、慈善は身近な行為です。したがって来日公演の多くは、本国の恵まれない人たちを救済する為のチャリティー公演という形で開催されます。そして公演自体が、在日ミャンマー人にとってのチャリティーともなっているのです。
2011年3月11日の東日本大震災は、ミャンマー人コミュニティーに少なからぬ影響を及ぼしました。
ミャンマー人はこの惨状に心を痛め、多くの人たちが被災地へ足を運び、支援活動を行ったことはよく知られています。そしてこうした状況下、日本社会全体に広がったイベント自粛の風潮に、ミャンマー人コミュニティーも覆われたのです。2008年、ミャンマー本国がナルギスサイクロンという14万人近くの犠牲者を出した未曾有の自然災害を被った際、ミャンマー人コミュニティーでは多くのチャリティー公演が開催され、支援を行いました。しかし、東日本大震災は日本の出来事です。同様の対応をとることはできませんでした。
2011年、既に開催が決まっていた公演は開催されましたが、それ以降、新規の企画は控えられました。そうした流れを後押ししたのが、本国における同年3月31日の民政移管、すなわち歴史的なミャンマー民主化でした。
記述の通り、コミュニティーの来日公演には日緬双方において慈善的要素がありました。しかし民主化によって、その側面が弱まったのです。つまり、在日ミャンマー人にとっては遠い故郷が近づき、本国のミャンマー人にとっては世界に扉が開いたのです。日本の震災とミャンマーの民主化という、一見無関係と思われる出来事がほぼ同時期に起こったことは、日緬両国の長きに渡る特別な関係が引き寄せたひとつの運命だったのかもしれません。民主化によって本国がいわば「普通」の国に近づいたことで来日公演に「慰問」的要素が求められなくなり、東日本大震災による自粛が相まって、来日公演開催の熱気は冷めていきました。
ちょっと寂しい来日公演の減少ですが、これは必然なのでしょう。民主化後におけるミャンマー芸能界の変化も来日公演減少の一因となりました。
それは、大スター歌手の公演におけるギャラ高騰です。軍政時代が安すぎた、ともいえますが、その上昇はあまりに急激で、慈善目的で公演開催できる範囲を超えてしまいました。それも民主化の一面です。2011年までの来日公演最盛期にあたる10年間の公演回数は30回。それに対して2012年以降の8年間余りでは、3分の1の10回にとどまります。また規模も小さくなり、最盛期並みの大規模公演はわずか3回なのです。
従来の来日公演には、慈善レベルだけではない裏の側面もあったようです。ただ、その部分を加味しても、従来の来日公演には慈善や慰問といった要素があり、良し悪しを別として、民主化が進行するにつれ、それが求められなくなった、と言っていいでしょう。