幻の英雄ウ・チョーディン

1948年に独立したミャンマーの国家理念は、民族や宗教の違いを越えた連邦国家。だからこそ初代大統領(サオシュエタイッ)はビルマ民族ではなく少数民族シャンの藩王でした。そうした流れの中で大統領となるはずだった人物と共に工場の運営を行い、数々の実績を残していった彼は、間違いなく国家建設の歴史に名を残す大人物でした。しかし、その運命を一変させてしまう出来事が起こったのです。

1962年の軍事クーデタ。

この政変によって大統領となったネーウィンの新体制は、社会主義でした。工場は国営化され、そして彼の技術も国有化されました。彼にとって、それは決して本意ではなかったでしょう。しかし、たとえ状況が変わっても、国の発展を強く願う彼は、接収されてしまった工場設備の移転作業の中で、指導者として、その技術力を発揮していったのです。若き技術者たちに、経験と実績によって培われてきた技術を伝授していくウ・チョーディン。その情熱あふれる姿は、まさに日本でのサッカーコーチ時代を彷彿とさせる熱いものがありました。卓越した指導力が、分野の違いを超えて発揮されたのです。

ウ・ミィンウェイは、技術指導者ウ・チョーディンについて、次のように語っています。

「彼は、高い技術と実績を持ちながら、私たち後輩たちに対して、厳しいながらも決して威張ることなく、理路整然と教えてくれました。そして技術について語り始めると熱くなり、時間を忘れて、夜中になってしまうこともよくありました。」

ウ・チョーディンはそんな傑出した技術指導者だったのです。

国有化の過程で、祖国のために技術指導に力を注いだ彼ですが、工場での移転作業が終了すると、その後忽然と姿を消してしまいます。そしてその実績も、その存在と共に忘れ去られていったのです。これほどまでに大きな功績をあげた人物が、なぜそんなことに・・・。真の愛国主義者であった彼は、国のために全力を尽くしました。しかし、決して当時の新体制を支持していたわけではなかったのです。

「社会主義は人間の才能を殺す。」

同僚にそうもらしていた彼は、技術移転作業終了と共に、現場から姿を消したのでした。

2007年、日本サッカー協会は、日本での殿堂入りに際して、故人となっているウ・チョーディンへ授与すべく、その家族に対する授賞式への招聘を試みました。そこでミャンマーサッカー協会に対して「家族探し」を要請し、それを受けてミャンマー国内ではスポーツ誌などを通じて家族への呼びかけが行われました。しかし名乗りはなく、結局、同国のサッカー協会会長へ授与が行われました。その後も、家族の名乗りはなく、現在に至っています。

日本サッカー協会からの依頼で、ウ・チョーディンの家族への呼びかけが行われたが...。 (Weelly ELEVEN NEWS 2007年8月15日刊より)