1950年4月2目、チン州のモーライッ生まれ。父は県知事に相当する高級公務員。13人兄弟の3番目だったキンマウントーは、ラジオから流れる歌を聴きながら育った音楽好きの少年でした。当時は、サックスなどの管楽器を取り入れたモダンな楽団の全盛期。伝統音楽に洋楽的要素を取り入れたハイカラなカーラボー歌謡(ビルマ風メロディーのポップス)を聴きつつ、兄たちが好んでいた欧米ポップスにも耳を傾けていたキンマウントー。そんな彼が初めて楽器を手にしたのは、高校1年のとき(5歳から始まる5・4・2制の教育制度で高校生となるのは14歳)でした。当時、世界はビートルズ・ブームの真っ盛り。半鎖国体制のビルマも例外ではありませんでした。この新しい音楽に憧れ、夢中になっていた彼は、次第に聴くだけでは飽き足らなくなり、友人のギターを借り、見様見真似でビートルズの曲を弾き始めました。以来、歌と演奏の魅力にとりつかれ、友人と共にバンドを結成。音楽の道への第一歩でした。

1966年、ヤンゴン工科大学(6年課程)に進学。そこで、彼の活動はますます本格的になっていきました。学友たちと共に、演奏活動の拠点となった「女子寮前」に繰り出しては、流行り歌を披露。こうして腕を磨いていった彼らの評判には抜きん出たものがあり、女学生の間ではちょっとした有名人でした。しかし、音楽に対する自信を深めるほど、学業の方は疎かになるばかり。そんな状況の中、ついに音楽活動に専念することを決意。70年、エリートの道が保証されているヤンゴン工科大学を中退してしまいました。さすがにこれには両親もがっかり。もちろん歌手になることには大反対。エンジニアになることを望んでいた父をはじめ、周囲の大人たちから責められた彼は、家から出ざるを得なくなりました。ビートルズ旋風が押し寄せていた当時、外国文化の流入を苦々しく思っていた大人たちにとって、そんな西洋音楽に熱中している若者は「不良」でした。

こうした逆境の中で歌手デビューを目指すこととなったキンマウントーとそのバンド仲間たち。ところで、この国の歌謡界には、今も昔も芸能プロダクションに当たるものが特にありません。歌手がアルバムを出す場合、個人的な”付き合い”はありますが、それは専属といったものではないのです。もちろん「属する」という点について巨視的に考えれば、現状では歌手全員が”SPDCプロダクション(※SPDCは現在のミャンマー政府にあたる「国家平和発展評議会」の略称)とも言うべき厳しい事務所の専属ということになりますが、そもそもこの国の業界内における営業は、当時から「フリー」が基本。そんなビルマ歌謡界で、彼らがデビューを果たすためにまず行なったことは、営業活動でした。1974年、家を出て四年間働いて貯めた金をはたいて制作したファーストアルバムを引っさげて、マンダレーやヤンゴンにある有名店へ売り込み攻勢をかけました。ここでの有名店というのは、レコード会社ではなく、街角でよく見かける音楽テープの専門店。つまり小売店に直接売り込んだのです。

今でこそ、ビルマの音楽テープは工場での一括生産が行なわれるようになっていますが、1990年代前半あたりまでは、各小売店が家内工業的にマスター・テープからカセットテープにダビングをしていたのです。そうした商品の合法性については、流通過程で配給を行なう発売元が卸すテープの正規の「ジャケット」を各小売店が買い取り、それをカバーとして付けることによって保証されました。キンマウントーたちが売り込みを行なっていた1970年代当時は、こうした「ジャケット」さえもなく、業界の流通システムはシンプルそのもの。版権所有者が直接、各小売店にマスター・テープを卸していたので、文字や写真などの印刷部分はなく、手書きでアルバムタイトルや曲名が記されているのみ。カセットテープ自体が一種の貴重品であった当時は、海賊版が大量に出回るといったことがなかったため、こうした方法でもよかったのです。

さて、キンマウントーたちの売込みですが、結果はマンダレーで15店、ヤンゴンで3店といったところで成功。アルバムの評判も上々でした。その後、79年に「リスウィ」というバンド名で2作目を発表。こちらもそれなりに好評を博しました。しかし、前年に結婚して既に家庭を持っていた彼にとって、歌手業(※下記の囲み記事参照)というのは余りにも不安定な職。生活のことを考えると、楽観的になれる状況ではありませんでした。

◆◆◆ビルマにおける『歌手業』◆◆◆
ビルマ人は、しばしば「ワーダナー」ということばを口にします。これを日本語にする場合、ぴったり当てはまる単語はありません。便宜的に「趣味」と訳すこともありますが、これでは誤解が生じることもあります。

日本語の「趣味」は、「専門としてでなく、楽しみとして愛好すること」ですから、主に「副次的」な事柄や活動に対して「道楽」または「遊び」に近い意味合いで使われることばです。その点で「ワーダナー」は異なります。このことばの意味は「好きだからやっていること」。確かに「副次的」活動も含みますが、どちらかと言えば、「好きだから」こそ打ち込んでいる「本業」に対して使うことばなのです。言い換えれば、仕事と割り切って義務的にやっていることではない、ということを意味しているのです。

ビルマの歌手たちは、当然、自身の歌手業を「ワーダナー」だと言います。中には「趣味」程度に歌手をやっている人もいるでしようが、大部分は好きだからこそ一生懸命打ら込んでいる「本業」。ただし、この国の歌手業というのは、あまり儲かるものではなく、たとえヒット作を連発してもそれほどの大金は得られません。歌だけを収入源とするならば、どんな大スターであっても、お金持ちの結婚式などに呼ばれて歌うといった地道な「営業」活動をしなければ、それなりの生活はできないのです。よって、歌手たちの多くは、歌以外からの安定した生活基般を別に持っており、全体からすれば「専業歌手」の方が少ないと言えるでしょう。つまり、歌手業というのは、基本的にもともと生活にそれなりの余裕がある者がやること。貧しい者が大スターを夢見て、金と名声を獲得するチャンスを追い求める世界ではないのです。

このことは、ビルマの歌手たちの多くが、ある程度裕福な階級の出身あるいは二世タレントという実情が物語っています。もちろん、経済的困難の中で苦労してスターの地位を獲得した歌手もいます。しかし、それはむしろ例外的存在であり、下積み生活を続ける名もない歌手というのは、この国の歌謡界では一般的ではありません。そういう意味で言えば、上級公務員の父を持つキンマウントーも、この世界における主流派の部類に入ると言っていいでしよう。