バマー・ムスリムの歴史~バマー・ムスリムの起源

ナッ信仰はビルマ固有の宗教ですが、その信仰の対象には、インド系とも言える神々が少なからず含まれています。したがってナッは、しばしば「バマー・ナッ(ビルマ人の神)」と「カラー・ナッ(インド人の神)」といった具合に区別されることがあります。このようにビルマ人の神と共に信仰されているカラー・ナッには、一口にインド人といっても、ミンヂー・ミンレー兄弟のようなビルマ生まれのナッから、ヒンズー寺院で祀られているようなまさしくインド起源のナッまであります。いずれの場合にせよ、このことは、その背景にインドからビルマへの人的移動が古くからあったことをあらわしていると言っていいでしょう。このあたりについては、例えば、コンバウン王朝時代(1752~1885)に編纂された欽定年代記をはじめその他の文献、または石碑に刻まれた記述などにおけるインド人についての記録といったところの歴史的資料から知ることができます。ナッ信仰の中に存在するインド起源のヒンズーの神々は、そんなインド人たちが持ち込んだものと考えられているようです。さらに、このような流れの中には、ヒンズーの神のみならずアッラーの神も存在していたと考えられます。そしてその部分が、バマー・ムスリムの歴史ということになります。

歴史というものは、誰が何のために書き残すかによって、多かれ少なかれその中身が変わってくると言っていいでしょう。つまり、その目的に沿った内容となるように取捨選択と解釈がなされて、整えられていくということ。例えば国家事業として体系的に編纂された歴史は、たいてい時の権力者にとっての正統性に対する根拠付けに主眼がおかれています。このように歴史は、その時代における政治状況と切り離せないものと言っていいでしょう。現代のビルマについて言えば、民間による歴史の掘り起こしは禁止されており、それに関わる活動は一種の犯罪行為として処罰の対象となることがあるそうです。そうした状況下で、バマー・ムスリムの歴史、すなわちビルマ・イスラム史とも言うべきものについてはどう取り扱われているのでしょうか。

現在、ビルマ・イスラム史に関わる事柄は、情報省が1997年に出版した刊行物『黄金色の光を放つ宗教』から知ることができます。ビルマには、民族や宗教という壁を超えたところでの連邦国家、という国家理念があります。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教といった四つの宗教を取り上げたこの刊行物の中で、イスラム教については、そうした理念に基づく政策上の理想像が描かれています。そして、その中でビルマ・イスラム史が、いくつかの文献における記述を歴史的証明としながら、述べられています(内容の要約はこちら)。

この刊行物は、こうしたビルマ・イスラム史を通して、イスラム教の伝播が布教活動によるものではなく人的移動に伴うものであると結論付けています。そして移動してきたムスリムについては、ビルマの国王によって居住を認められた存在とされています。さらに、そのようなムスリムがビルマの諸王国においてどう位置付けられていたか。文献の引用にとどまっているこの刊行物の中では、それへの言及はありません。そのあたりについては、ビルマ史研究の中から推し量ることができます。

『黄金色の光を放つ宗教』(要約)

ヤカイン王国(ベンガル地方に接する現ヤカイン州)のマハータインサンダ王(在位788~810)時代、船の難破によってベンガル湾のヤンビェー島に漂着したムスリム水夫たちに対し、王は国内の村に住むことを許可した。このような漂着といった形でパテインやミェイッ(共にビルマ南部の町)などには、既にそれ以前からムスリムが居住するようになっていた。1535年、タウングー王朝のダビンシュエティー王は、ハンタワディー(現在のバゴー)遠征の際、ムスリム兵からの反撃を受けた。1660年、インド(イスラム国家のムガール帝国)から、第5代ムガール皇帝シャー・ジャハーンの後継者争いに破れた勢力が、ヤカイン王国に助けを求めて入ってきた。その後の経緯の末、そこに属する弓矢部隊に対し、ヤカイン王サンダトゥーダマーミンは護衛兵としての地位を与えた。こうしてヤカイン王国に仕えるようになったムスリムたちは、最終的にシットゥエ近郊の村などに居住させられた。

1599年におけるタウングー王朝とバゴー王国との戦争など、16~18世紀の諸戦争におけるムスリム捕虜は、シュエボー、ザガイン、チャウッセー、ヤメーディンといった上ビルマ地方における村や町に居住させられた。

また、コンバウン王朝時代の石碑には、1709年、インワ王朝のサネーミン王時代にヤカインから入ってきたムスリム3000名以上をタウングー、メイッティラー、ターズィーなど12ヵ所に居住させた、と記されている。

以上のようにムスリムは、1000年~1200年ほど前からビルマに住むようになっていた。こうしたことからイスラム教のビルマへの伝播が、組織的な布教活動によるものではなく、人的移動に伴うものであったということは、歴史的に明らかである。

王朝時代、それぞれの宗教は尊重されており、宗教対立はなく、イスラム教は他の宗教と共存してきた。しかし、イギリス植民地時代になって、宗教対立をあおる書物などのマスメディアに対して、検閲が行われなかったので宗教暴動が起こるようになった。

独立後、政府は、タインインダー(ビルマ国民)のムスリムにメッカ巡礼の許可を与えた。しかし、外貨獲得の必要性によって、1963年からは中断された(1980年代から再開、1996年までの間に2440人に許可を出している)。現在、宗教省と協力して活動を行っている5つのイスラム教会に対して、政府はイスラム教普及のために毎年10万チャットの支援を行っている。