Ma Hay Mar さん(マヘーマーさん)
NPO法人日本ミャンマー・カルチャーセンター(通称JMCC)を主宰
主宰するNPO法人JMCCにおけるビルマ語教室の様子

テレビで、雑誌で、イベントで・・・ミャンマーのこととなれば頼りにされ、影になり日向になりたびたび登場するこの女性。明るく聡明で、今ではとても積極的に行動する彼女だが、来日当初はどちらかといえば控えめに、在日ミャンマー人社会とも距離をとりながら日本暮らしをスタートした。その日々を聞いた。

■大きな決断をポンポンと

2002年頃のことだ。東京でミャンマー伝統舞踊の楽団「ミンガラドー」を率いていた在日ミャンマー人ウィンシュエさんのアパートに出入りしていた若きMa Hay Marさん(マヘーマーさん)を、ウィンシュエさんさんはいつも「タミー(娘)」と呼んでかわいがってくれた。

ミャンマー人の住民が多い高田馬場のアパート”シュエタイッ(ミャンマー人館)”のひとつだった関ビル。2002年、JMCCはここで誕生した。階段などにはビルマ語の張り紙が。

ミャンマーの人はよく、親しく思う人を「娘」「兄」などと呼ぶ。スーチーさんのことを親しみを込めて「アメースー(スーお母さん)」と呼ぶ人も少なくない。家族のような親しさで、家族以外の人と接するのはミャンマー人らしい気質のひとつだ。ウィンシュエさんのアパートには、多くの在日ミャンマー人が出入りし、面倒見の良いウィンシュエさんは彼らをフォローし、手助けし、ときに日本語を教えていた。

来日して2年間、日本語学校で学び、中央大学の学生として4年を過ごしたばかりだったマヘーマーさんは、日本社会になじむことに心を注ぎ、積極的に在日ミャンマー人社会と関わろうとしていたわけではなかったが、日本の父のようなウィンシュエさんのところにやってくる人たちを、手伝う場面が徐々に増えていた。たとえば、公共料金の請求書にどう対応すればいいのかは、ウィンシュエさんよりもマヘーマーさんのほうがよくわかったし、銀行口座を作りたいとか、区役所に行きたいとか、日本で暮らすミャンマー人の、日常の細々した困りごと、つまづきの解消に協力した。

同時にこのころ製作が始まっていた日緬合作映画「血の絆」の主演女優、麻生あかりさんほか、仕事としてミャンマー語を学ぶ必要のある何人かの日本人と出会う。日本語もミャンマー語もきちんとわかるマヘーマーさんは、請われるままにミャンマー語を指導。この頃から急速に、通訳や講師の依頼など、問合せ、仕事の依頼が増えた。

人に教えることが得意なマヘーマーさんと、ミャンマー文化を日本に紹介したいと考えていた夫の落合清司さん(ミャンマー名:ウチョー)。2人は、リトルヤンゴンと呼ばれる高田馬場のウィンシュエさんの部屋に間借りをして日本とミャンマーのかけはしとなる活動を開始。ここから日本ミャンマー・カルチャーセンター(JMCC)は誕生した。

2002年、シュエタイッの一室における映画『血の絆』主演女優の麻生あかりさん(中央)へのビルマ語レッスン。それを見守るウィンシュエさん(右)

求められることがどんどん増え、活動が広がるにつれ、アパートの一室で時間を限定して間借りする形では手狭となり、ウィンシュエさんからも独立を勧められるようになった。そこで2003年6月に、高田馬場駅から近い場所に事務所を借り、2005年11月にはNPO法人化。現在に至る。マヘーマーさんは、大学を卒業し就職していたが、当時は「失われた10年」の真っ最中。職場では人権を踏みにじられるようなことが続き、一方、JMCCの活動はますます軌道に乗り始め、時代の要請に押されるようにJMCCに仕事を一本化した。

「マヘーマーはときどき大きな決断をポンポンとするんですよ」。

落合さんがあきれ顔で、でもどこか誇らしげに言う。事務所を借りるのも維持するのも大きなお金が必要だし、1年後のことはわからない。でもマヘーマーさんは、自分の感覚を信じた。「私にはビザもあるし家もある。だから私、がんばれる」。その言葉に、落合さんも応援と覚悟を決めた。