■第2期(1990年代後半~2008年頃)
リトルヤンゴンの全盛期~高田馬場

90年代も後半あたりになると、高田馬場駅周辺で暮らすミャンマー人が多くなってきます。

それに伴って高田馬場に中井から移転したり、あるいは新規開店したりする店が増えてきます。95年にミャンマー料理店だった「ザガワー」が移転して美容室としてオープン。同年に駅前の黒い雑居ビル「タックイレブン」に輸入雑貨店「ゴールデン・イーグル」が新規開店して大繁盛すると、中井からは1998年半ばに「シュエガンバウン」が進出。タックイレブンは現在リトルヤンゴン高田馬場をまさに象徴するような存在となっていますが、そのような” ミャンマー化”はこの頃から始まります。ミャンマー料理店について言えば、中井以外では1996年までの時点で、新大久保、歌舞伎町、大塚、西日暮里、神田、駒込、池袋などいろいろなところにありましたが、その当時高田馬場にはまだ1軒もありませんでした。しかし97年4月に「ナガニ」が開店。同年11月には「ミンガラーバー」が続きます。そして99年にはシャン料理店「ノングインレー」、ミャンマー料理店「センチュリー」、美容院を兼ねたユニークな料理店「ピュー」、そして「ゴールデンアジア」などが開店してリトルヤンゴンの地位は、この時期に中井から高田馬場に移行していきました。

では、なぜこのような変化が起こったのでしょうか。これについては、何か特定の出来事に原因を求めることはできません。様々な要因が折り重なっての結果なのです。

そうした中でも注目すべき出来事として、1994年6月13日に中井で発生した火事があります。これについては、在日ミャンマー人の歴史家ともいうべきウ・テイングエ氏がミャンマーの雑誌「チーブワイェー(発展)」に寄稿した記事に記録されています。それによれば、その火災現場は、こともあろうにあの「駆け込み寺」だったのです。そしてこの火事によって、中井の日本人のミャンマー人への風向きが変わったようです。

すでに80年代と違って、その当時に日本へ来たミャンマー人の多くは在留資格を失って超過滞在者となっていました。この火事の後、ミャンマー人が大勢住んでいるアパートの存在に懸念を抱いた日本人がいたのでしょう。警察への通報でミャンマー人屋敷シュエタイッへの摘発が始まったのです。それ以降、超過滞在者にとって「住宅街」の中井は必ずしも安住の地ではなくなったようです。一方「繁華街」なら外国人が目立ちにくい。そのころから中井の隣駅、高田馬場では、バブル崩壊の影響から物件の賃借が容易になってきていました。こうして中井から高田馬場へ人の流れの中心が移っていき、その中で1995年に高田馬場で開店したのが、美容院のザガワーや輸入雑貨店のゴールデンイーグルでした。ミャンマー人にとって暮らしやすい環境が整ってくることで住民が増え、それによりさらに店も増える。こうした循環によって90年代の後半にリトルヤンゴンは、中井から高田馬場に移行していったのです。

ウ・テイングエ氏が本国の雑誌に寄稿した中井ポウンヂーチャウンの火事(写真:U Thein Ngwe提供)

そして2000年代に入ると、とりわけ01年はミャンマー料理店出店ラッシュとなります。3月にオリエンタルキッチン、8月にランデブー、11月にワンダフル、12月にホワイトハウス、そして中井からはトップが移転してきました。翌02年も8月にババチェーオー、9月にルビー、12月頃はゾージーチェーオーといった具合に出店が相次ぎ、タックイレブンでも輸入雑貨店などが増え、リトルヤンゴン高田馬場は急成長していきました。新目白通りの「京や第2ビル」でミャンマー料理店が必ず2店舗営業するようになったのもこの時期です。(2023年10月26日加筆)

このように急成長した在日ミャンマー人コミュニティですが、状況は2003年末ころから大きく変わってしまいます。

この年の10月17日に石原都政の下で入管・東京都・警視庁による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」が発表されました。その主旨は「5年以内に超過滞在の外国人を半減させる」というもので、これに基づく大規模な摘発が始まり、高田馬場駅前での警官による職務質問や入管職員によるシュエタイッ(ミャンマー人住民の多いアパート)への家宅捜査が日常的に行われるようになりました。警官は容貌で判断して職質を行うので、日本人がその対象となることもあり、壁に両手をついた状態で身体検査される人もいました。

こうして大勢の人々が強制的あるいは自主的に帰国。ミャンマー人の減少によって高田馬場をはじめ、大塚、新大久保、歌舞伎町などの料理店や輸入雑貨店は、徐々に閉店を余儀なくされ、ミャンマー人コミュニティは活気を失っていきました。

とりわけ新大久保駅周辺は、いわば高田馬場に次ぐリトルヤンゴンぶりでしたが、今(2023年現在)では雑貨店が1軒残っているのみ。コリアンタウンとして知られる新大久保ですが、駅前付近にはパキスタン系のムスリム経営の雑貨店や料理店が多く、現存するのは、そうしたイスラムコミュニティの中で活動しているミャンマー系ムスリムの店のみです。

こうしてこの時期、ミャンマー人経営の店は大きく減少し、また超過滞在のミャンマー人は、帰国か政治運動への参加か、という選択を迫られ、伝統舞踊団やロックバンドも政治色抜きでの文化活動が不可能となり、コミュニティ内でのイベントは減少していきました。

「共同宣言」直前のリトルヤンゴン高田馬場(2003年8月)