留学生つながり

約10日後。何と嬉しいことに「MAJA」という「ミャンマー元日本留学生協会」の元会長がウ・チョーディンのことを知っているかもしれない、という情報が入ってきました。

サッカーコーチではなく、「留学生」としてのウ・チョーディン。80年以上前の出来事と現在とを結ぶ唯一の絆かもしれません。藁にもすがる思いで元会長宅へ向かいました。

駐仏大使やユネスコのアジア局長といった経歴を持つMAJA元会長は、80を超える高齢の重鎮であるにもかかわらず、急な訪問に対して快く対応してくださいました。ご自身が、戦時中実施された東南アジアから日本への南方特別留学生であり、そんな貴重な話を織り交ぜながら話題はウ・チョーディンへ移っていきます。いよいよ手がかりがつかめるか・・・。しかし、そんな期待もつかの間、残念ながら彼についてはご存じないとのことでした。「協会の名簿に何らかの記録は残っていませんか?」そう訊ねたところ、1943年の南方特別留学生が最も古い記録で、それ以前のことはわからないそうです。彼が日本に留学して活躍していたのは、英国植民地時代。サッカー協会の記録と同様、この時代の記録は残っていないようです。

やはりだめか。そう思った時、ありがたいことに、元会長は、次につながる情報をくださいました。

MAJAの「現」会長は、ウ・チョーディンと同じく東京工業大学の留学生だったとのこと。ただ、この方の留学期間は1960年代。時期がかなり異なります。しかし、こうして人づてでたどっていけば、家族に近づけるかもしれません。

情報をくださった元会長はさっそく電話連絡を試みてくださいました。しかし、つながらない。すると「直接行きなさい」とのこと。時刻は既に夜9時近く。日本的感覚からすれば、失礼では?と躊躇してしまいますが、人の訪問に関して、ミャンマーはとても大らかで柔軟。通信事情の問題も関係しているでしょうが、この国では、突然の訪問はごく当たり前。これくらいならば非常識な時間帯ではないとのこと。ビルマ人は、思い立ったらすぐに行動、という一面もあります。同行の協力者たちに急かされて、すぐに訪ねることとなりました。

さて、この現会長。かつては政府の中で責任ある地位にあったというエリートです。そのお宅に到着した時刻は、既に夜九時をまわっていました。「大丈夫」と言われてもやや心配。大邸宅の門の脇から使用人を呼んで、要件を伝えます。程なくして「どうぞ」とのこと。快く迎えられ、とにかく遅い時間帯でもあるため、単刀直入に用件を述べ、ウ・チョーディンについて訊ねました。すると何と「知っている」という回答が帰ってきたのです。