イスラムを嫌う仏教徒ビルマ人

仏教徒ビルマ人は、概してインド人のことを良くは言いません。では、インド人のどこが嫌いなのか。尋ねてみると、「カラーはずるくてせこい」といった答えが聞かれます。こういった話題の際には、たいてい「カラー」という言葉が使われるため、ここから見えてくるのは、仏教徒ビルマ人のインド人嫌いといった部分のみにとどまります。確かに一面その通りであり、カラーという言葉も「インド人」を意味しています。しかし、こうした場合のカラーは実質的には「ムスリム」を指しているのです。つまりインド人と一口に言っても、ヒンドゥー教徒もいればムスリムもいます。肝心なのは、仏教徒ビルマ人にとってヒンドゥー教徒は、たとえインド人であっても嫌悪の対象とはあまりならないということです。

では、なぜイスラム教とその信者であるムスリムが嫌われているのか。その問いに対する明確な答えは、容易に導き出せるものではありません。歴史的に見て、かつてこの国を植民地支配したイギリスの分断統治政策も無関係ではないでしょう。しかし、これも直接的な解答にはなっていないようです。確かにこれが重要な要因の一部を成しているとは考えられますが、ビルマ人自身、仏教徒にせよムスリムにせよ、これについてはもう少し別の見方をしているのです。つまり、イギリスの植民地支配が仏教徒ビルマ人へもたらしたのは、インド人に対する嫌悪であって、ムスリムへの嫌悪ではなかった、ということです。独立後のビルマにおけるイスラム関連の歴史を概観すると、インド人への嫌悪がムスリムへの嫌悪へと転化されていくようすが見えてきます。

植民地時代、宗主国イギリスの政策は、この国にインド人の急増をもたらしました。その数は一時、120万~200万人にものぼり、彼らは印僑として、華僑を上まわる多大な経済力を有していたと言われています。ビルマ人にとってそんなインド人が愉快な存在でなかったことは、想像に難くありません。とりわけ憎悪の対象となったのが、「チッティー」といわれる一民族でした。

当時ビルマ人のほとんどは、農業によって生計を立てており、イギリス植民地政府が必要としていた労働者とはなり得ませんでした。そうした労働者不足を補うために、植民地政府はインド人労働者の移住を推進し、同時に金融業を得意とする「チッティー」民族の移住をも奨励しました。こうしてビルマ人農民を相手に高利貸しとして成功したチッティーは、ビルマから得た富を英領インドにもたらすと共に、自らも財を成していったのでした。ビルマ人の目から見て、最も直接的な搾取者のひとりであったチッティー。彼らはある種インド人を象徴する存在となりました。そして、そのあたりに端を発する仏教徒ビルマ人のインド人への嫌悪は、この時代、インド人との衝突という形で何度となく表面化するようになったのでした。この時点での嫌悪が、とりわけムスリムに対するものでなかったことは、チッティーの多くがヒンドゥー教徒であったことから知ることができます。こうしたチッティーに象徴されるインド人に対する見方は、独立後、ムスリムに対して向けられるようになり、植民地時代の直接的経験を持たない世代へと引き継がれていきます。

1960年代、ビルマ式社会主義体制下において経済のビルマ化が行なわれる中、多くのインド人が帰国。そして1970年代には、「外国人」としてのインド人は約7万人程度にまで減少しました。そうした中での1974年。この年は、この国のムスリムにとって、ひとつの大きな転機となりました。

この年に行われた国勢調査に際し、イスラム評議会(Islamic Council)などの主要なムスリム協会は、古くからビルマに居住するムスリムたちに対してひとつの指示を出したのです。それは、民族名の申告にあたっては、自らのアイデンティティーに基づいて「ビルマ」とするよう、といった内容でした。「バマー・ムスリム」は、その存在自体、歴史的にかなり古いものと考えられます。しかし、ひとつの集団としての明確化が大規模に図られたのは、この時が初めてと言っていいでしょう。自己申告が可能だったこの調査では、予想を越えるバマー・ムスリムの存在が明らかになったそうです。その結果、政府はムスリム抑制策とも言えるような政策を明確に打ち出すようになりました。独立後、ムスリム閣僚を含みながらの国家運営がはかられていた一時期の風潮はもはやありません。法的な平等は謳われていますが、政治・軍事の分野において、ムスリムが一定以上の地位に就任することはなくなりました。学校教育におけるビルマ史の中で、イスラム関連の記述は姿を消し、その延長線上での動きによって、ムスリム自身でさえこの国における自らの歴史を自由に語ることができなくなりました。イスラム史関連書物の出版は不可能となり、現在この種の書物は、一般的に入手することはできません。さらにモスクやムスリム墓地に関する認可が出されるのは、修復の場合のみ。新規の建設が認可されることはないそうです。

仏教徒ビルマ人が現在抱いているムスリムへの嫌悪感は、ある種の不条理さをも伴う感情的なもの、と言えるかも知れません。ムスリムは東に足を向けて寝る(西方にあるイスラム教の聖地メッカに頭を向けて寝る)。または、屠殺業(豚を除く)を営むムスリムは、殺生を嫌う仏教徒とは相容れないものがある。こういったことを嫌悪の理由に挙げる仏教徒は少なくありません。しかし、実は仏教発祥の地はむしろ西方にある、または、殺生を嫌う仏教徒もムスリムが屠殺した肉を食べている。そういったことに対して、仏教徒から明確な回答を得ることはできません。そこにあるのは、宗教観の相違。仏教に対する敬虔な信仰は、ムスリムへの嫌悪と表裏一体をなす場合もあるようです。

国民の80%以上を占めると言われる仏教徒。その厚い信仰をふまえた上で行われた政府のムスリム抑制策。イスラム教拡大への警戒を基本とする政策と仏教徒ビルマ人が現在抱いているムスリムへの嫌悪感は、無関係なものではないようです。また、経済面におけるムスリムの優位さとそれに対する嫉妬がムスリムへの嫌悪に結びついている。仏教徒ビルマ人は否定しますが、ムスリムからはこのような指摘がなされています。

 ムスリムの法的地位

ビルマのムスリムは、法的にどうなっているのでしょうか。現在の市民権法によると、この国に居住する者は、次の3種類に分けられて政府への登録がなされるそうです。

  • ビルマ人
  • 帰化ビルマ人
  • 外国人

ここでいう「ビルマ人」には、ビルマ民族、シャン民族、カレン民族など、全民族を包括する「ビルマ国籍人」とも言うべき広い意味があります。この地位は3代に遡って「ビルマ人」であれば認定され、それに基づいて「国民登録証(NRC)」が交付されます。
「帰化ビルマ人」というのは、10年以上この国に居住した外国人に認められる地位です。申請して認定されれば「準国民登録証(直訳で“客国民登録証”)」が交付され、「ビルマ人」と同等の権利が得られるそうです。
「外国人」は、文字通り外国人として登録され、「外国人登録証(FRC)」が交付されます。そして、この地位の者には「外国人税」の納付が義務づけられます。

ムスリムの地位は、これら3つにまたがっています。

「帰化ビルマ人」もしくは「外国人」という地位にあるムスリムならば明確な非ビルマ民族であり、その場合の民族は殆どがインド人と中国人です。インド人ならば「インディア(カラー)・ムスリム」、中国人ならば「パンデー」ということになります。
「ビルマ人」の場合、国民登録証(NRC)に各々の具体的な「民族名」が記載されます。ビルマにおける権利義務規定は「ビルマ人」がひとつの単位です。従ってその中では、民族の違いによる差異を設けないことになっています。そうしたことからこうした「民族」については、当局の認定を必要とせず、自己申告という形がとられています。
このように「ビルマ人」については、諸民族が平等に権利を有することが法的に規定されています。この根底にはあるのは、「民族や宗教の違いを超えた連邦国家」というこの国の基本理念。したがって宗教面でも同様の地位が保証されていることになりますが、実際の「運用」は必ずしもそうとは言えないようです。従ってムスリムの場合、とりわけ公職に就く者の中には、登録証上の“仏教徒”もいるようです。そんな“ムスリム仏教徒”の割合は、ムスリム全体から見れば、微々たるものでしょう。たとえそうであっても、この国の「統計」について考える際には、そうした存在を無視することはできません。統計は、あらゆる事象を集大成した結果とも言えます。この国の「ムスリム人口4%」という統計上の数値は、そうした結果のひとつと言えるかも知れません