■第1期(1990年代)
リトルヤンゴンの誕生~中井

今でこそ高田馬場はミャンマー人街としての認知が少しづつ広がっていますが、実はここはいわば2代目。初代リトルヤンゴンは中井駅付近でした。

1980年代、日本で暮らすミャンマー人は、コミュニティーを形成するほどの規模ではありませんでした。しかし1988年の民主化運動とそれへの弾圧、そして軍事政権の成立によって状況が大きく変わりました。

80年代末から90年代にかけて、政治的な迫害から逃れるためなどのさまざま事情で日本に入国するミャンマー人が増加し、その多くが東京都内で生活するようになります。生活の糧を得るための職場は主に新宿駅周辺の飲食店などであったため、そこへの通勤で便利な西武新宿線や山手線といった駅の近辺がミャンマー人の居住地域となっていきました。具体的には下落合、沼袋、大塚、駒込などですが、その中で、1991年頃から特にミャンマー人住民が多くなったのが西武新宿線の「中井」でした。

当時はバブル崩壊で地価の下落が始まっていたものの、ミャンマー人にとってはまだアパート賃貸契約は決して容易はでありませんでした。そうした点で最も好条件だったのが中井駅近辺だったのです。

外国人に対して入居拒否する不動産屋が現在よりずっと多かった当時、中井の業者は好意的だったそうです。そして何より心強かったのは、不動産を通さずに部屋を貸してくれるという奇特なアパートのオーナーがこの町にいたこと。ミャンマーの仏教とミャンマー人が大好きという日本人で、そのアパートは、ミャンマー人が暮らすシュエタイッ(ミャンマー人館)となりました。

さらに中井には人々の世話役を担うミャンマー人がいて、それを頼って人々が集まってくる。中でも、日本から本国への宅配業で有名なご夫婦の存在は、今でも語り草になっています。在日ミャンマー人にとって、閉鎖的な体制の母国への物流は容易ではありません。ミャンマー人にとってこうしたビジネスは、同時に生活支援でもあるのです。とりわけこのご夫婦は、他にボランティアで日本語を教えるなどの活動をしており、そのような心強い存在もこの町に同胞たちを引き寄せました。

こうして、妙正寺川沿いに民家やアパートのある中井駅近辺は、「リトルヤンゴンナカイ」といわれ、ごく平凡な住宅街の中にミャンマー料理店や輸入雑貨店などの異文化空間がぽつりぽつりと存在する不思議な町となりました。(※2020年4月18日加筆)

ナカイパヤー
1998年1月11日、熱心な信者による仏像の寄進を受けて、ナカイ・パヤーで「パヤーアネイガザー・ティンブエ」という儀式が行なわれました。仏像は、作られただけでは信仰の対象とはなりません。僧の読経による入魂ではじめてパヤーとなるのです。寄進された仏像は、重量約200キロ、高さ約15メートルのブロンズ像。マンダレーにおいて775万チャット(約320万円)で購入し、船便で装飾品と共に日本へ輸送したものです。パヤーアネイガザーに、ミャンマー人の信仰の厚さがうかがわれます。

在日ミャンマー人の活動は、この中井を中心とする西武新宿線沿いの他には、山手線の新大久保駅や大塚駅周辺あたりで活発となってきます。中でも新大久保駅周辺はリトルヤンゴン史では重要な地。ここで初めてミャンマーの料理店や輸入雑貨店が登場したのです。

91年、新大久保でミャンマー料理店「ヤッタナー」が開店しました(※注)。日本人とビルマ人のご夫婦が経営するこの店は、客層はミャンマー人が中心ですが、日本人も視野に入れたエスニック料理店路線もとっていたようで、日本人が来店すると、オーナーが直々に料理について丁寧に説明してくれました。そしてこの頃から、客層の想定をほぼミャンマー人のみに絞った感じの店が、中井、新大久保、大塚、歌舞伎町あたりに、日本人の目にほぼ触れることなく開店していきました。
※注)当時を良く知る古参の在日ミャンマー人の間では、日本初のミャンマー料理店は秋葉原の「バガン」が最古という説もある。

コミュニティ内での民族的な伝統行事も、91年から開催されるようになります。ミャンマー人にとっての最大の伝統行事は新年を迎える「ダヂャン(水祭り)」。これは隣国タイの水かけ祭り「ソンクラーン」と同様の行事で、日本ではビルマ青年ボランティア協会が中心となって在日タイ人のソンクラーンに参加する形で開催されるようになりました。そして3回目にあたる1993年、タイとの合同ではなく、単独でのダヂャン(水祭り)が同協会によって文京区の駒本小学校で開催され、以来、主催者に関しては紆余曲折があるものの、現在まで継続しています。(※2019年6月7日加筆)

第1回ダヂャンはビルマ青年ボランティア協会とタイ国留学生協会との合同水祭り(1991年白山駅付近)※写真提供:U Aung Than

こうした行事開催の動きの中から、92年11月にウ・ウィンシュエ氏をリーダーとする民族舞踊団「ミンガラードー」、そして翌93年にロックバンド「リバー」(のちのブラックローズ)が結成され、西武新宿線沿線の野方スタジオで練習を重ねて活動を開始。この頃から同様のグループがいくつか結成され、コミュニティ内での文化的イベントの開催が増えていきました。その会場としてよく利用されたのが、南大塚ホールと豊島公会堂(2016年2月閉館)で、在日ミャンマー人にとっては馴染みのホールとなりました。

プリズムホールで開催された第5回東京ダヂャン(1995年4月16日)でのミンガラードー
初の在日ミャンマー人ロックバンド「River」(1997年2月2日「ミャンマーの祭典」にて)

イベント開催の背景には、東京で生活するミャンマー人の増加があり、それに伴ってミャンマー産食品などの生活必需品に対する需要が高まり、94年には、初の輸入雑貨店「フジストアー」が新大久保駅付近に開店しました。

ミャンマーからの雑貨輸入自体は以前から行われていましたが、それらは「マンションの一室」における極めて限定的なものでした。しかしそこに高い需要があると判断したマウンマウン氏が初めて「店舗」を構えて創業。食料品などの日用雑貨、音楽テープ、レンタルビデオなど、豊富な品揃えとサービス精神あふれる接客が好評で店は大成功。それ以降、同種の輸入雑貨店は増えていきました(マウンマウン氏は98年に帰国したが、フジストアーの名を引き継いだ店は現在も営業中)。

このように新大久保はミャンマーの料理店・輸入雑貨店発祥の地で、のちに大久保通りにはミャンマー料理の伝説的名店「シュエピータン」や雑貨店「マハー」などが店を構え、ミャンマー人街的要素を備えていきました。ただ、ここはとにかく多文化の町。韓国、中国、タイなどのヒトやモノがひしめく中で、ミャンマーはその小さな一角にすぎません。その意味で言えば、中井には生活するミャンマー人や関連する店舗、そして人々の信仰のよりどころとなっている僧院や仏像(ナカイパヤー)があり、その存在が際立っているこの一帯こそ、リトルヤンゴンにふさわしい町。ここにはミャンマー人コミュニティの世話役サッポロさんの営むミャンマー料理店「トップ」やシャン料理店「ヴィーナス」、輸入雑貨店「シュエガンバウン」や慈善的に診てくれる駆け込み寺のようなクリニックなどもありました。

こうして在日ミャンマー人社会は、1991年以降の90年代前半にひとつのコミュニティとして機能するようになり、民主化運動団体との連携を軸にしながら、同時に絶妙なバランスを保ちつつ、90年代後半あたりからは本国から芸能人を招聘して来日公演を開催するなど、活動を活発化させていきました。