※1チャット=実勢レート約0.2円(公定は約19円)
ラペッイェー(紅茶)=30チャット(普通)、50チャット(特別)
ペットウッツ・チェーオー(ワンタン入り汁ビーフン)=300チャット
ミネラル水=80チャット
チェッター・ダンバウッ(鶏のミャンマー風ビリヤニ)=300チャット
ミャンマービール(缶)=300チャット
ベーギン(北京ダック)=3000チャット
ウェッタードウットー=10~15チャット
モヒンガー=50チャット
シャンカウスエ=120チャット
チェッターヒン(鶏のカレー風煮込み)=320チャット
バズンドウッヒン(大エビの煮込み)=1000チャット
ヤンゴンのタクシー最低料金=300チャット
ガソリン闇相場(1ガロン市場価格)=700チャット
ディーゼル闇相場(1ガロン市場価格)=700チャット
バンコクーヤンゴン便(UB)=8700バーツ(実売価格は5500バーツ前後)

1998年あたりから下落が著しくなってきたチャットの対米ドル実勢相場。この年(2001年)は、1ドル=550~600チャットくらいですが、1000チャット程にまで急落することもあり、チャット安の進行に歯止めがかからない感じになっていました。

そうした中での電力事情ですが、そもそも長きに渡って不安定で電気がいつ使えるのかまったく見当がつかない状況の中、この頃から停電の時間帯にある程度の傾向が見られるようになってきました。ヤンゴンでは、たとえばある地区では午後2時くらいを境に1日おきに供給される、といった具合です。こうした状況は地区によって大きな差があり、傾向自体が見いだせないところもあれば、安定して供給されるところもあり、一概に何とも言えないところではありますが、のちに「計画停電」と公表される措置は、おおよそこの頃から始まっていたと考えられます。

いずれにせよ、一旦停電したら、店の経営者などは小型発電機で代替せざるを得ないことには変わりがありません。その燃料であるディーゼルは、石油価格が為替レートの変動に直結しているため、この2年間で3倍近くにまで市場価格が高騰。これが全体的な物価高に波及していきます。

8月 (သြဂုတ်လ)

ヤンゴン (ရန်ကုန်)

占い大国とも言えるミャンマーにおいて、最も名高い占星術師のミンテインカ。当時、ミャンマーを代表する署名人のひとりと言えるほどのカリスマ存在。元々作家でもあり、日本語に翻訳された作品もある。

のちの2008年に亡くなるが、その7年前に特別な取り計らいで運良く会うことができた。圧倒的なオーラを放っているミンテインカの語りかける声は、小さなつぶやきですら聴く者の耳に届く力強さに満ちていたのがとても印象的だった。

ミンテインカの道場には、大勢のお弟子さんや信者たちが控えていた。

写真に写っている看板の一番上の赤色の文字の短いビルマ語は「オウム」と書かれている。

日本でもかつて新興宗教団体によって知れ渡るようになった「オウム」という言葉は、元々「無常」を意味するパーリ語の呪文。これがビルマ語においても一種のおまじないの言葉となり、人々の間で日常的な表現として定着している。具体的には、小さな子どもが頭などをぶつけて痛がっている際、親などが「オウム・ポワッ」と言って患部に息を吹きかけてあげるのだ。日本で言えば「痛いの痛いの飛んでけー」という感じで、痛がる子どもをあやすまじないの言葉となっている。

当時、最も人気のあった総合雑誌「マヘーティー」を訪ねて、編集責任者のウ・キンマウンミィンにいろいろお話をうかがった。軍事政権下だった当時は言論の自由が極めて大きく制限されていたので、お聞きした話しに政治的な内容は全くなかったが、「公表は控えてくれ」とのことだった。

月刊誌であるマヘーティーの197号(2001年4月号)
※最新号はこちら

ヤンゴン最古の映画館ワズィヤシネマ(WAZIYA CINEMA)。その隣は外観がのちに緑色に塗装されるバインシネマ(KING CINEMA)

このワズィヤは、現在(2020年)元国連事務総長ウ・タンッ(ウタント)の孫に当たるウ・タンミィンによって設立された非政府組織「ヤンゴン・ヘリテージ・トラスト」が保存対象としている建造物のひとつである。

ボーヂョーアウンサン通りとスーレーパヤー通りの交差点周辺(現在シャングリラホテルやサクラタワーのある辺り)は、映画館が集中していた場所で、ワズィヤはそのひとつ。

ボーヂョーアウンサン通りには、Taw Win(トーウィン)、Yuzana(ユーザナ)、Kartan(カータン)、Ye Yin(イェーイン)、Waziya(ワズィヤ)、Bayin(King/キング)、Thwin(トゥイン)、Hsuhtupan(ストゥパン)、Myoma(ミョーマ)、Shwe Gone(シュエゴウン)。そして、スーレーパヤー通りには、Pa Pa Win(パパウィン)、Goun(ゴウン)、Nay Pyi Daw(ネーピードー)、Shae Saung(シェーサウン)、という具合に、14の映画館があったが、1974年のウタント事件でトーウィン、ユーザナ、カータンが破壊されて11館に。そして1996年にはその破壊の跡地にセントラルホテル、パパウィンとゴウンの跡地にトレイダーズホテル、さらに1999年にはイェーインの跡地にサクラタワーが建設され、8館にまで減少した。

さらにワズィヤから東側へシュエゴウンまで続く6館は、この写真の2001年時点では健在だったが、その後2013年までの間に、トゥイン以外の5館が閉鎖。その内のワズィヤは保存対象だが、4館は既に取り壊され、その結果、14館もあったこの界隈の映画館は、トゥイン、ネーピードー、シェーサウンの3館のみとなってしまった。

3年前(1998年)に開館した映画博物館。

ミャンマーでは、1980年代前半までだいたい50本以上の映画が製作されていたが、それ以降は減少し、10本程度となる時もあった。その要因のひとつにビデオ映画の登場がある。従来通りのフィルム映画より手間がかからず費用も安く済むからだ。

フィルムでの制作にはおおよそ3ヶ月くらいはかかるが、ビデオ映画ならば制作期間も7~12日くらいと短い。その手軽さから2001年の時点では週に10本くらい制作される時もあった。乱造気味のビデオ映画に押されてフィルム映画は減少の一途だった。

1990年代末から、政府は映画会社設立に対する規制を緩和。ペーパーカンパニーなどの実績のないものも含めて映画会社がこの時期100社ほどまでに急増。映画製作の振興という意図が政府にあったか否かは不明だが、映画博物館はこうした時期に開館した。

ちなみに、当時のフィルム映画製作費はおおよそ3000万チャット。トップ俳優のギャラは、男優ならドゥエイの700万チャット。女優ならテテモーウーの400~500万チャットといったところだった。

ミャンマー映画界の神様とも言える巨匠ウ・トゥカ監督に運良く会うことができた。作家、俳優、映画プロデューサーなど多方面でその才能を発揮した、まさにミャンマーを代表する偉大な文化人。ウ・トゥカなくしてミャンマー映画を語ることはできない。

最も有名な作品のひとつである1956年の「ဘဝသံသရာ(バワータンダヤー/人生の輪廻)」では、監督のみならず主題歌を作詞し自ら歌い伝統歌謡の名曲として歌い継がれている。母の真心を描いた1968年の「စကားပြောသော အသည်းနှလုံး(ザガーピョード・アテーナロウン/話す心臓)」人と人の絆をあらわした1977年の「တစ်ဦးက စေတနာ တစ်ဦးက မေတ္တာ(タウーガ・セーダナー・タウーガ・ミィッター/誠意に対して慈愛で応える)、そしてテレビドラマとして制作された、僧侶の一食の重みを描いた1990年の「ရဟန်းစားရသော ဆွမ်းတစ်နပ်(ヤハンサーヤード・スンタナッ)」など、数多くの名作を残している。

また社会的な慈善活動も展開しており、入院中の経験(同室の患者が亡くなった際、その家族は貧困から葬儀ができなかった)から生活困窮者救済の慈善活動として、この年(2001年)の1月に「無料葬儀協会(Free Funeral Service Society)」を設立したところだった。なお、ウ・トゥカ氏は2005年に95歳で亡くなり、この慈善活動は現在に至るまで俳優のチョートゥー氏を中心に展開されている。

ヤンゴンにおける先駆的な本格シャンカウスエ屋台「神魚(シュエリー)」。

この時期、シャンカウスエ店といえば、ダウンタウンの場合、34番通りの「999」くらいしかなく、またシャンカウスエの屋台はそれ自体が少なく、あったとしてもまがいものが多かった。そんな中でタウンジーから来たシャン人のご家族が市当局(YCDC)から許可を得て、1日に10~15チャットの場所使用料を払い、1999年から営業している屋台。他の屋台にはない本格的な旨さでとても繁盛していたが、元々は宝石商とのこと。そろそろタウンヂーへ戻り、本業を再開するとのこと。店をたたむには惜しいほど繁盛している美味しい屋台だった。

在日ミャンマー人社会における輸入雑貨店のパイオニアであるマウンマウン氏が、帰国後の2000年1月1日に開店した喫茶店「DELICA」。マウンマウン氏が心がけていることは、DELICAにしかない高品質の味を常に一定のレベルに保って、バラつきをなくすこと。こうしてオリジナリティを確立し、客の定着をはかり、実際それで店は大繁盛。営業時間の5:00~23:00まで客が絶えない。

来客たちには、写真に写っている屋内よりも店の前の路上に設置したちゃぶ台と腰かけの”テラス席”の方が人気。路上使用は、この頃、月々300チャットを市当局に払えば可能だった。

1993年に創業した北京ダックで有名なレストラン「Western Park」。

ミャンマーでは、アヒルの丸焼きのことを「ベーギン」といい、地元では人気があるが、実際のところ肉はパサパサで正直さほど美味しくはない。この店でも、一押しの北京ダックのことをビルマ語でベーギンというが、よくある一般的なベーギンとは全く別物。カリッとした皮やジューシーな肉は横浜の中華街で食べられる高価な北京ダック並み、あるいはそれ以上の味だった。

注文するとシェフが目の前でさばいてくれる。ネギなど共に包む餅皮も本格的。そして驚くべきは、その値段。3000チャット。日本円で約600円。安すぎ、と思ったが、現地での3000チャットは決して安い値段ではなかった。

日本円に換算すると、驚くほど安い、ということはこの当時よくあることだったが、現在(2020年)このようなことは、もはやほとんどなくなった。ミャンマーの発展もあるが、それ以上に日本の絶対的な沈下、である。

マンダレー (မန္တလေး)

ミャンマーの伝説的大女優、ドー・メーシン氏に運良く会うことができた。

歌手としても有名なド・メーシンの存在は、日本の大女優に例えると、さしずめ原節子といったところか。両名共、活動期間が1930年代から60年代と短く、40代半ばで引退しながらも20世紀を代表する大女優として、引退後40年以上経っても名声は衰えることなく伝説の大女優であり続けたという点が実に似ている。

ただ出演映画の本数は、ドー・メーシンは、わずか14本と少なく、それでも伝説的な大女優として名声を得ることができたのは、功徳によって運が良かったから、とのこと。44歳(ウィキペディアには45歳と記載)での引退については、年をとって綺麗じゃなくなったから、と笑いながら語り、その後は敬虔な仏教徒としてその信仰の実践を中心とする生活を送っていた。

マンダレーやピィーなどの地方都市で活躍していた三輪タクシーの「トウンベインカー」。現在(2019年)マンダレーなどで良く見かける三輪タクシーとは似て非なるもの。現在はインド製で「トゥクトゥク」とタイ語由来の言い方で呼ばれているが、この頃は日本のマツダ製で呼称は「トウベインカー(三輪車)」。

ちなみにヤンゴンのタクシーは、同じマツダ製の青色の四輪車で「リーベインカー(四輪車)」と呼ばれていた。

トウンベインカーのシンプルな内部。

メイッティーラ (မိတ္ထီလာ)

未登録のバイク車両。

1990年代半ばあたりまでのメイッティーラでは、自転車が庶民の足だったが、この頃になるとバイクが急増。当時唯一の日刊新聞である国営紙「ミャンマーアリン」に、“一般市民の声”として、「バイクが増えすぎて、邪魔で困っている。何とかしてくれ」といった投書が掲載されたりして、この時期、メイッティラーでもバイクライセンスの新規登録が停止されていた。

バイクの大半は、日本、タイ、中国から輸入されたものだが、この時期、新たに所有するには、輸入された車両を買っても登録ができないので、既に登録済みの中古車から選ぶしかない。

しかしメイッティラーでは(おそらく全国的に)、皆かまわず輸入バイクを買う。つまり未登録のままで乗るのだ。実際、繁華街の路上で15分間くらい観察したところ、38台中、ナンバープレートつけたものは16台、さらに、ナンバープレート付きでも登録済みとは限らない。市内にはナンバープレート製造店があり、大半が偽造ナンバーのバイク。警察に見つかると最低3000チャットの賄賂を払うことになるというが、実際、違法バイクだらけなので、警察も見逃している。取り締まりは、危険運転や安全性において問題のある車両が中心で、そもそも警察自身の違法バイク所有も珍しくない。それを公務に使用したり、時にそれを売りに出したりもする。

ちなみにバイクの相場は、登録済みの合法車両の場合、状態があまり良くなくても最低でも60万チャットの後半くらい。未登録ならば、HONDA(日本製あるいはタイ工場生産)のDream97年製が52万チャット、Smile96年製が33万チャット、とのこと。

子どもたちの塾通いは以前から珍しくなかったが、この頃は過熱状態になっていた。

元々東南アジアの中では、教育熱心で識字率も高かったミャンマー。2000年ごろからセーダン試験(高校修了と大学進学を兼ねた試験)の合格率が下がってきたことから、塾への需要が増し、生徒たちはそのほとんどが塾に通っている、という状態になっていた。