ミャンマー工業の父

日本サッカーの父ともいうべきウ・チョーディン。日本でほとんど知られていないこの偉人は、ミャンマーにおいて、それ以上にまったくの無名人でした。功績の大きさに比してあまりに低い知名度。その落差に違和感を覚えずにはいられません。そんな知られざる偉人の存在を知るビルマ人にようやく会うことができたのです。

ウ・チョーディンから技術指導を受けたウ・ミィンウェイ (2007年8月ウ・ミィンウェイの自宅にて)

MAJAの現会長ウ・ミィンウェイ。彼にとってウ・チョーディンは、40年ほど前に勤めていた国営工場の大先輩だったそうです。そして後輩として勤めていた約2年間、いろいろな技術指導を受けていたそうです。

1960年にウ・ミィンウェイは国費留学生として日本へ渡り経営工学を専攻し、1968年に帰国しました。その当時、ミャンマーは1962年のクーデタによって始まった社会主義体制下にありました。

帰国した彼が従事した仕事は、民間工場の国有化に伴う設備移転作業。これは、単なるモノの移動ではありません。肝心なのは接収した設備を政府がいかに使いこなすかという点でした。よってこの作業は、民間工場の技術者による技術指導を伴いながら進行し、終了までに数年が費やされました。そうした作業の中で、技術伝授に卓越した指導力を発揮した民間の技術者が、他ならぬウ・チョーディンだったのです。

ウ・チョーディンのパートナーだったカチン族のリーダー、サマドゥワスィンワナウン (「Kachin Nation Online Journal」より)

もともと彼が技術者として務めていた民間工場は、少数民族カチンのリーダーであるサマドゥワ・スィンワナウン所有のものでした。そこで彼は技術分野だけでなく、実質的な経営も担っていました。

日本でサッカー指導者として大きな功績を残した彼は、1924年の帰国時に「スポーツ分野での活動は日本で授かった教育の恩返しである」という言葉を残して日本を去りました。そして、日本で培った経験を生かして、独立後のミャンマーにおいては、技術者として大活躍をしたようです。中でも特筆すべきは、製鉄釜や金型といったまさに工業の基礎となる開発をミャンマーで初めて行ったことです。そしてその技術は、何と現在にまで引き継がれているのです。このようにさまざまな功績を残してミャンマー工業のパイオニア的存在となった彼は、初の国産ジープを生産するなどして、独立国家ミャンマーにとって重要な存在となっていきました。

独立後、ウ・チョーディンのパートナーともいうべきサマドゥワ・スィンワナウンが所有する工場は、この国の工業開発現場となっていました。さらにこのカチン民族のリーダーは、当時既にビルマ連邦の次期大統領となることが決まっていたのです。そうした意味でも、ウ・チョーディンはまさに国造りの中核を担っていたのです。