1980年、3作目を発表。しかし、その売上げはあまりかんばしくありませんでした。
作品の著作権に対して「買取り方式」がとられているこの国の音楽業界では、歌手に印税収入はありません。したがって売上げの良し悪しは収入に直接連動しませんが、それが次回作の買取り値を左右するのは、言うまでもないこと。駆け出しの彼にとって、3作目の不振というのは、収入面での見通しが立たなくなったことを意味しました。そんな状況の中、家庭を持つ彼に選択の余地はありませんでした。
子供が親から独立するという概念が一般的に存在しないビルマでは、子供は、独身ならば40、50歳になっても親のスネをかじるのは当たり前。特に仕事をしていなくても、責められることはあまりありません。そんな子供思いなビルマの親でも、彼の両親の場合は、そもそも歌手を目指すことに反対だっただけに、さすがにその活動を継続させるような援助だけはしませんでした。既に30歳となっていた彼にとって、自分の家庭は何よりも大切な存在。歌の犠牲にするわけにはいきません。音楽活動の中止を決意し、さっそく仕事探しを始めました。
中退とはいえヤンゴン工科大学というエリート校に在籍していただけあって、とりあえずの仕事はまもなく見つかりました。それは小学校で教えること。教員免許は持っていませんでしたが、ある程度の学歴があれば、地方では講師という形で教壇に立つことができるのです。ただ当時は、ビルマの学校教育に音楽の授業がありませんでしたから、彼の本領が教育現場で生かされたわけではなかったようです。
5ヶ月間ほど教員生活を送った後に始めた仕事は、精米所の経営。こちらからは、かなり安定した収入が得られました。仕事が次第に波に乗り、生活にゆとりが出るようになってきた頃、当初かんばしくなかった3作目のアルバムの売上げに変化の兆しが見え始めました。そして83年あたりには、遅まきながらヒット作といえるほどとなり、キンマウントーとそのバンドである「リスウィ」の評判は次第に上昇。次回作が期待されるほどの人気者になっていました。