メタル界のカリスマと言われるオジー・オズボーンなどから影響を受けたというレーピュー。大学時代、バンド活動に熱中していた彼の夢は、歌手になること。しかし結婚後の現実は、生活のために仕事を見つけることでした。結局ザガイン管区南部の都市モンユワで友人に雇われて働くこととなり、主に農作物などを取り扱う仲介業に従事しました。彼の担当は経理から使用人同然の雑用までのあらゆること。そんな音楽と無関係な仕事が続く中、学生時代、演奏の時にはいつもくっついて来ていた男が彼のもとを訪れました。

 「俺がカネを出すから、音楽をやってみないか」

 レーピューの音楽活動は、学生時代の「ファン」から持ちかけられたビジネスとしての話から始まりました。1990年代初頭のことです。

 ビルマには“Music Production”を名乗るレコード会社の類はあります。しかし、ここで音楽作りや歌手の育成といった音楽プロダクションらしいことはほとんど行なわれず、タレントスカウトやオーディションもめったにありません。このことは、歌手を目指す者にとって、「困難」さをあらわしているわけではありません。むしろその逆で、能力、やる気、資金があれば、デビューは比較的簡単とさえ言えます。業界ではレコード会社に相当する「大手小売店」に対し、制作者が作品を売り込んで直接卸すといった営業が行なわれており、「歌手志望者」もレコーディングまでの資金さえあれば自主制作した作品を売り込むことでデビューが可能なのです。そうした“自由さ”のあるビルマ歌謡界ですが、とにかく「資金」のないレーピューにとっては、決して自由な世界でありません。それだけに、持ちかけられた話しは願ってもない絶好のチャンス。「プロの歌手になれるとは夢にも思っていなかった」とのちに語る彼は、こうして自分の歌と演奏を録音したテープを携え、首都ヤンゴンに向かったのでした。

 ビルマのミュージックテープを見ると、バックバンドとスタジオの名前が目立つデザインとなっていることが少なくありません。一流のスタジオとバンドを使っていることが、セールスポイントのひとつとなるようです。レーピューも、ヤンゴンの繁華街にある大手小売店への売り込みが成功するような作品を作り上げるには、この線を押さえておかなければなりません。

 当時、ロックバンドの中でも特に人気の高かったのが「エンペラーズ」。しかし、彼はあえてこのバンドを避けました。その理由は、ヴォーカリストのゾーウィントゥッが単独の人気歌手としてすでに有名スターとなっていたからです。メンバーがスター歌手であっても、ロックバンドのエンペラーズにとってバック演奏は重要な営業。したがって条件さえ合えば「素人」からの依頼であっても引き受けます。つまりこれは、依頼の難易ではなく、ロックバンドのヴォーカリストとなりたいという彼の「野望」の問題だったのです。こうしてエンペラーズを“避けた”彼が“選んだ”のが「アイロンクロス」。しかしこれも有名ロックバンドのひとつですから、営業とはいえ、単なる歌手志望者の依頼に無条件で応じるわけではありません。そこでレーピューは持参したテープを聴かせ、自分の力量を示しました。その結果は思惑通り。メンバーたちに気に入られ、レコーディングが開始される運びとなりました。

 デビュー作『ガンダヤー・ラミン(荒野の月)』はこうして完成。売込みの方も成功し、1993年に発売されたこのアルバムはみごと大ヒットを飾りました。これがきっかけでメンバーとも意気投合。一緒に暮らすようにまでなり、彼のロック・ヴォーカリストという野望はアイロンクロスにおいて達成。バンド自体も彼のパワフルな歌唱によって人気が上昇し、1994年には国立劇場での公演を実現しました。そして翌年にはこのライブを収録したアルバムが発売され、これがまた大ヒット。こうしてその人気は決定的なものとなり、1996年、レーピューとアイロンクロスはビルマを代表するロック歌手として来日するに至ったのです。