創成期 ※ジャケットをクリックで曲が聴けます
独立後の1950年代、少数民族などとの国内問題を抱えながらもミャンマーは、東南アジアの優等生と言われ、第三世界を牽引する国々の一角を担っていました。首都ラングーンは、東南アジアの中心都市で、シンガポールのモデル都市といわれるくらい(実際これは誇張で事実はその逆だが)。そして1960年代は、大衆歌謡の世界にとって、新しい時代となるはずでした。
しかし、ステレオ録音という新技術が登場し、欧米ポップスという新しい洋楽が上陸し始めている時期の1962年、軍事クーデタによってネーウィン政権が成立。この国は、ビルマ式社会主義によって半鎖国体制となり、海外からの物流は滞り、経済は低迷し、文物においても世界の流れから取り残されていきます。音楽界においては、ステレオ歌謡、すなわちミャンマー製ポップスとも言うべき新たな音楽が芽生えようとする時期に閉鎖的な体制が始まっていたのです。
ネーウィンが率いるビルマ社会主義計画党(BSPP)政権は伝統護持政策をとり、外国の音楽だけでなく、楽器および関連する機器や雑誌などまでもが正規のルートで輸入できなくなりました。しかしこうした状況下で新しい音楽の担い手たちは、体制からの逆風を受けながらも、1960年代末から1970年代にかけて新しいサウンドを生み出していきます。初期の作品の多くは、ステレオ録音の先駆けとなったウ・バテインスタジオでレコーディングされました。
当時、多くの人々が歌謡曲をラジオで聴いていたことは、既述の通りですが、国営ラジオ局の「BBS」はしかし、新登場のステレオ歌謡を放送しませんでした。BBSには英語放送のVoice of Burmaがあり、人気番組のLocal Talentなどでは「英語のままで歌う」ことで洋楽ポップスが放送されていました。ただ、一般庶民により身近なのはビルマ語放送です。そちらでは、歌詞をビルマ語に変えたカバー曲や洋楽スタイルのオリジナル曲が、「ミャンマー文化を破壊する」という理由で有害なものとされ放送が禁止されたのです。ダッピャー(SP盤レコード)も、発売されているのはカーラボー歌謡だけで、ステレオ歌謡はプレスされていません。そういう状況の中で、ステレオ歌謡の媒体は何だったのでしょうか。それは、ラペッイェーザイン(喫茶店)です。
■喫茶店で花開いたステレオ歌謡
当時のミャンマーでは、庶民(ただし主に男たち)にとって最大の社交場は喫茶店です。そこは、紅茶をちびりちびりとすすりながら噂話に花を咲かせて情報交換し、流行りモノを皆で楽しむ空間。最新の音楽を流すことは喫茶店の効果的な集客手段で、資金力のある有力店は、ミャンマーで「アカイ(日本のAKAI社のこと)」と呼ばれていたオープンリールを備えていました。ステレオ歌謡の創成期に”アカイ”でレコーディングされた曲は、オープンリールのテープにダビングされ、いわば業務用に近い形で一部において流通していたようです。1970年代に入りカセットテープでの販売が導入されて73年頃に普及し始めますが、テープ自体は半鎖国体制下では国境貿易でタイから入ってきたり、船乗りが持って来たりする非正規品。庶民が気軽に買える代物ではありません。また、仮に音楽テープを手に入れたとしても再生機はまだほとんど普及していません。オープンリール販売も続いていた70年代のアルバムは、ジャケットもなく、曲目は手書き。そんな当時の若者たちは、喫茶店に来てステレオ歌謡を聴いたものです。
店内に鳴り響くのはステレオ録音されたサウンド。一方ラジオから流れてくる曲やダッピャーはモノラルです。そうした対比から、カーラボー歌謡は「モノ歌謡」といわれる場合があります。
ラジオを媒体としたカーラボー歌謡。喫茶店を媒体としたステレオ歌謡。「ステレオ」という命名には、モノラルのラジオでは放送されない、という背景もあったのです。
■創成期のスターたち
(※画像をクリックすると曲を聴くことができます。)
1960年代末頃が創成期のステレオ歌謡。この時期の草分け的な歌手の中でも核となった存在として、アコーディオン・オウンヂョー、テッカトー・トゥンナウン、ラーショー・テインアウン、プレーボーイ・タンナイン、ミンミンラッ、ヌエジンウィンなどを挙げることができます。
アコーディオン・オウンヂョーはもともとカーラボー歌謡の人気歌手ですが、新しい洋楽調を取り入れた曲を歌ってステレオ歌謡の先駆者となりました。BBSでこうした曲は放送されませんから、彼はそれをオープンリールで販売して新しい音楽産業の道を開きました。
かつてカーラボー歌謡がさまざまな洋楽から影響を受けたように、ステレオ歌謡も欧米をはじめ、中華圏、日本、インドなどいろいろな地域の楽曲を取り入れています。そうした点は、創成期の大スター、ラーショー・テインアウンの曲によくあらわれています。シャン州出身の彼は、1970年代初旬、アメリカのカントリーやポップ、ラテン、中華圏や日本の歌謡曲などさまざまな曲を取り入れ、時にビルマ語だけでなく中国語や英語をも織り交ぜ、豊かな声量で歌いあげました。そうした曲の中には日本の「骨まで愛して」があり、この昭和歌謡の名曲はミャンマーでも知られています。
ラーショー・テインアウン
(Jimmy Jack)
1970年、ラーショー・テインアウンはバンドPLAYBOYのステージを観に行ったことがきっかけでリーダーのタンナインとアルバムを共作。これを機にPLAYBOYに参加。この曲(ザベーナン)はその時期にレコーディングしたオリジナルの名曲。
ラーショー・テインアウン
(Jimmy Jack)
1972年にアメリカに移住したため、本国での芸能活動期間は短いが、渡米後も音楽活動を継続。伝説的な歌手としての人気を保ち続けた。このビデオはヤンゴンにおける2015年新年の公演。2018年12月28日、72歳で死去。
ステレオ歌謡においては、歌手だけでなくバンドも数多く登場します。その多くは伴奏を生業とするスタジオミュージシャン的存在ですが、ELECTRONiC MACHINE、THE KING、THE RAYS、SUCCESS、THE ACE、AURORA、NEW WAVE等といった人気バンドの場合、コンサートはバンドが中心に据えられ、複数の歌手が登場するという形で開催されます。こうしたバンドの中でも、1970年に結成されたPLAYBOYは、この世界の草分けとして突出した存在です。リーダーがスター歌手で他にも人気歌手を複数擁して華々しい活動を展開。スーパースターバンドとして一世を風靡しました。
そんなPLAYBOYのリーダーは、ボーカルとドラムスを担ったタンナイン。彼は1960年からBBS英語放送のラジオ番組Local Talentに出演するなどして音楽活動を展開。バンド結成後はプレーボーイ・タンナインと呼ばれ自称します。
PLAYBOYは、日本でいえばGS(グループサウンズ)に近い存在で、若者たちを熱狂させました。音楽的には欧米ポップスなどのビルマ語カバーが中心という路線。こうした曲は「コピーチューン(コピー歌謡)」といわれ、ステレオ歌謡における主流のひとつとなります。取り入れた楽曲の多くはオールディーズや日本の歌謡曲などで、サウンド的にはソフト路線といえます。バンド編成の特徴としてはタンナインと妻でもある女性スターのパレーを二枚看板のボーカルとしつつ、複数の人気歌手が流動的に加わるという形をとっています。こうしたスタイルは人気バンドの定番となり、現在のミャンマーにおけるカリスマバンド、アイロンクロス(IC)もその延長線上にあります。PLAYBOYに参加していた人気歌手としては、セインルイン、テッカトー・エーマウン、ミャンマーピィー・テインタン、エルクンイーなどが有名ですが、中でもパレーは、のちの世代に大きな影響を与えたステレオ歌謡における伝説的女性歌手と言えます。
アイロンクロスにとって、PLAYBOYはバンド編成における源流といえますが、サウンド面でのルーツはミンミンラッです。1970年代初頭、いち早くロックをステレオ歌謡に導入したミンミンラッは、ミャンマー・ロックの創始者といえる存在。この国におけるロックギターの神様ソーブエムーと共に、ミャンマーロック史を語る際、欠くのできない重要なアーティストです。1971年、ステレオ歌謡誕生において重要な役割を果たしたウ・バテインスタジオで行われたわずか1日のレコーディングで完成した曲は、オープンリールで「テーダンドゥイン(音楽録音)」と言われる音楽専門店の間で1曲50チャットで販売されました。そしてカセットテープがまだ普及していない当時、曲は一般に流通する代物ではなく、若者たちは喫茶店へ聴きに行って新しい音楽に触れたのです。
こうして1970年代初頭にミンミンラッが発表した欧米ロックのビルマ語カバーは、ステレオ歌謡と若者文化に影響を与え、のちに登場するロックスター、ゾーウィントゥッやレーピューなどにとってのテキストとなり、歌い継がれていきます。
ミンミンラッ
1971年にイギリスのエジソン・ライトハウスの曲「Love Grows (Where My Rosemary Goes)」をビルマ語でカバーした「メーティダーをさらったのは誰だ」を発表。後年、ロックスターのゾーウィントゥッがリバイバル。このような曲をビルマ語では「ピャンソー・テー(再演曲)」という。
女性歌手のヌエジンウィンは、1961年、歌手の登竜門とも言えるBBS英語放送の番組Local Talentで欧米ポップスを英語で歌ってデビュー。64年からはカーラボー歌謡の分野に進出してビルマ語の歌声を披露するようになります。そして1973年、洋楽調の曲をビルマ語でも歌うようになり、ステレオ歌謡の女王的存在となります。当時、流行りのアルバム企画に男女2人の歌手による共演ものがあり、そうした作品も数多く残しています。中でも大物ラーショー・テインアウンとのレコーディングは印象的だったそうです。1970年代前半頃は、スタジオで使用するマイクが1本だけだったため、彼の声量があり過ぎてバランスが取れなかったとのこと。やむなくラーショー・テインアウンがマイクから一歩下がって歌って解決。そんな工夫をしてレコーディングされたのが日本の「骨まで愛して」(クリックでYoutubeへ)のカバーだったのです。
ヌエジンウィン
洋楽ポップスを英語で歌う歌手としてデビューした当時は、Joyce Winという名前で活動。1964年からヌエジンウィンとして、カーラボー歌謡やミャンマー・タンズィン調の曲も歌うようになった。このような古いMTVは、国営のMRTVが制作。ラジオ局のBBSでは禁止されていたステレオ歌謡だが、テレビ局では放送されていた。80年代、テレビはまだあまり普及しておらず、一部の人たちしか視聴することのできなかったからと考えられる。