軍政期(80年代末~)※ジャケットをクリックで曲が聴けます
80年代にバンドAURORAのメンバーとして登場したゾーウィントゥッは、ギタリストの兄ゾーミョートゥッと共に自己のバンドEMPERORを結成しました。レパートリーは専らコピーチューンで欧米のカントリーやロックなどのポップスのビルマ語カバーです。当時、男性歌手はややハイトーンの甘い歌声が主流。サイティーサイン、カイザー、ソールインルイン、トゥーエインティンなどのトップスターをはじめ、多くの歌手がそうした歌声でファンの心をつかみました。その中で登場したゾーウィントゥッの歌声は、ややハスキーで主流から外れていました。ファーストアルバムの表題曲「マーキュリーの夜」は、今では彼の代表曲のひとつですが、当時、その原曲である「Something’s Been Making Me Blue」をクリス・ノーマンばりに歌ったものの、大きく注目されたわけではなかったようです。しかし、次第にそのハスキーな歌声にロックを感じる若者から人気が集まり、キム・カーンズの「Speed of The Sound of Loneliness」をカバーしたアルバム『シンタンヂン』がヒット。88年リリースのベストアルバムで一気に人気が高まりロックスターの地位を確立しました。
1992年に登場したレーピューは、89年に結成されたバンドIRON CROSS(以下IC)に93年から参加して、ゾーウィントゥッと並ぶロックスターとなり、今やミャンマーロックのカリスマ的存在となっています。
(※レーピューの詳細はこちら)
彼の所属するICは、80年代後半にいろいろな人気バンドで活躍していた凄腕ミュージシャンたちが集まって結成されたスーパーバンド。カイザーやソールインルインといった人気スターがボーカルだったバンドSUCCESSなどで活躍していたミャンマー・エレキギターの神様ソーブエムーが、一番弟子のチッサンマウンと共に、バンドSYMPHONYを経て、1990年にICを創設。メンバーは、バンドNEW WAVEからカヤン(ドラムス)とキンマウンタン(ベース)、バンドAURORAからバニャーナイン(キーボード)という最強の凄腕音楽集団となり、ミャンマーロックを牽引する存在となっていきます。
EMPERORとICという人気バンドに、それぞれ所属するゾーウィントゥッとレーピュー。この二大ロックスターは共に、90年代の半ばまで、音楽的にはコピーチューンの域を出ませんでした。しかし1996年、両者ともに全曲コーバイン・タンズィンのアルバムを発表。こうしてコピーチューン一辺倒から脱却し、ミャンマーの音楽シーンに新たな道を切り開いていきます。
こうしたロック音楽は、ステレオ歌謡の中でも、体制からの規制を最も受けました。
ここでちょっと話を1970年代に戻します。ステレオ歌謡は、国営ラジオ局のBBSでは放送されなかったことは記述の通りです。閉鎖的体制のネーウィン政権は、ラジオ放送に対して行ってきた検閲を1970年代、カセットテープでリリースされるようになった音楽アルバムにも行うようになりました。ただ、こちらは事前に歌詞やジャケットを当局に提出して許可を得ることで作品は音楽市場に流通し、記述の通り、喫茶店が最大の媒体となって人々の間で広く聴かれるようなります。もちろん検閲がありますから表現は規制され、一例として「煙」、「銃」、「平和」、「血」、「行進」、「敵」などが対象となったことが明らかにされています。
ビルマ語は声調言語ですから、曲作りにおける作詞はメロディーに合った言葉を選ぶ必要があります。そもそも言語面でそうした技量が求められる上、当局からの規制によってさらに言葉づかいに神経を使わなければなりません。ミャンマーでは楽曲の作者について通常、作詞と作曲を分けず、単に「テーイェー・サヤー(ソングライター)」とするのは、このように両者は切り離しがたいという事情があるからかもしれません。この時期、サイカムレイッ、マウンティッミン、コーネーウィン、そしてカーラボー歌謡でも活躍したコーレールインやニュンフラインフラインなどの優れたソングライターが多くの曲を残しますが、中でもWILD ONESのサイカムレイッの歌詞は、ラブソングの中に意味深いメッセージが込められていると言われています。
ロックはひとつの音楽文化であり、曲だけでなくファッションや思想など、さまざまな要素から成り立っています。だからこそ若者の支持を集め、ゆえにミャンマーでは政府から警戒されることがあります。ただそうした人気は、時に利用され、ゾーウィントゥッは政府のプロパガンダソングを歌うこともあったようです。
ステレオ歌謡は、国営ラジオのBBSでは1988年にビルマ式社会主義体制が終わるまで放送されませんでしたが、1981年に全面放送が開始された国営テレビ局のMRTVでは、スタジオ内で撮影されたMTVが放映されていました(ライブではなく口パク)。そして、1988年に実権を掌握した軍事政権下で、ステレオ歌謡はBBSでも放送されるようになりました。ただ言論統制はさらに厳しくなり、政府のプロパガンダに歌手たちは動員され、そうした曲を歌う映像がテレビではしばしば放映されました。ゾーウィントゥッはこうした状況におけるひとりと言えます。その一方でレーピューは1995年にアルバム『Power 54』をリリース。ところが、事前検閲を通過していたにもかかわらず、後にアルバムジャケットの許可が取り消され差し止め。タイトルを「Power」に変更して別ジャケットに差し替えられました。「54」が、アウンサンスーチー氏宅の区画番号(チャンアマッ/Plot No.)だったからです。ICはカレン、華人、チン、モン、インダー、クリスチャンビルマといったマイノリティーがメンバーのバンド。ロックの精神が相まって、そうしたことも無関係ではないのかもしれません。
1988年の民主化運動をきっかけにビルマ式社会主義体制は終わり、民主化運動弾圧を経て登場した軍事政権は開放政策に転換。1997年にアメリカが経済制裁を発動するまでの間、門戸開放による外国企業のミャンマー進出は、ステレオ歌謡へも影響を及ぼしました。
ビルマ式社会主義の半鎖国体制下、洋楽を好む音楽ファンは外国の、とりわけ新しい欧米ポップスを渇望していました。そうした状況下で、開放政策によって海外から文物が流入。その結果はコピーチューンアルバムの氾濫でした。そして自国の曲の場合も、経済活動の活発化で音楽業界は、手間のかかるコーバイン・タンズィンの新曲を求めなくなります。こうして過去にヒットした曲のピャンソー・テー(リバイバル曲)ばかり、という状態に陥っていきます。
ただこうしたピャンソー・テーの流行は、一方で自国の古い名曲に対する掘り起こしや新しい要素を盛り込んでの再生という動きにつながりました。それを牽引したのが、漫画家として名をあげ、そして音楽プロデューサーとして90年代に大活躍したヤマです。メースウィ、ヘーマーネーウィンといった歌謡界のトップスター、そして二枚目俳優として人気絶頂のヤンアウン等を起用して、カーラボー歌謡の名曲から隣国タイのポップスのカバー曲まで、ジャンルにこだわらず幅広く制作。特に若手女性歌手ニニウィンシュエの高い歌唱力に着目し、伝統楽器と電気楽器を融合させたダイナミックな演奏によるミャンマー・タンズィンのアルバムを企画して、彼女の力量を最大限に引き出しました。
こうしたピャンソー・テー流行の中、ミャンマーピィー・テインタンの娘であるポーダーリテインタンが、父の曲や伝説的女性歌手パレーなどのヒット曲を歌って人気を獲得。アルバムが依然としてカセットテープで販売されている当時にあって、数多くの新作のほとんどをCDでもリリースした唯一の歌手となりました。
ステレオ歌謡は、コーバイン・タンズィンの視点から見た場合、軍政の始まりによって一時代が終わったと言えます。今でも歌い継がれているステレオ歌謡の名曲は、70~80年代の曲ばかり。サイティーサイン、キンマウントー、ルワンモー、ソーパイン、カイントゥー、カイザー、ソールインルインといった大スターたちは、軍政期の90年代も活躍しますが、新作は減り、ヒット曲のピャンソー・テー(セルフカバー)が目立つようになります。そうした中で際立った活躍をしたのが、80年代後半に登場したトゥーエインティンです。90年代にかけて名作を発表し、新時代の牽引者となることが期待されました。しかし残念なことに、2004年、心臓病で亡くなってしまいました。
ヤンアウン
ミャンマー映画界におけるアカデミー賞を6度も受賞した名優ヤンアウンを歌手として積極的に起用したプロデューサーのヤマは、アルバム制作だけでなく、ステージショーも企画した。このビデオは「音楽の迷路」と銘打たれたショーの中の1曲。カーラボー歌謡の名曲「モンシュエイー」を人気女優メータンヌの踊りと共に披露。これは、1970年に公開されたウィンウーの映画における1シーンを再現したもの。ウィンウーは、1988年に亡くなった伝説的名優。
こうした中で新時代を先取りしたのが、ミャンマーの歌謡界にいち早くラップをもたらしたミョーチョミャインです。1992年、デビューアルバム『降雨の瞬間』ではエレクトロニック・ダンス・ミュージックに見られるサンプリング的な手法を取り入れ、また初のラップナンバーもこの中に収録されています。そして2作目の『世界の外側』からは自己のバンドでアルバムをリリース。クオリティを高めたラップナンバー「互いに裏切らないよね」のヒットで新分野を切り開きました。そして3作目で自己のバンド名を冠した『VIRUS 3』を発表し、一連の作品によって、彼はミャンマーにおけるラップの先駆者となりました。その後、多くのラップ歌手が登場しますが、中でも2000年に登場したサイサイカンラインの人気は幅広く、トップスターとしての地位を獲得して現在に至っています。
1990年代末から2000年代にかけて、コピーチューンが氾濫し、複数のアーティストによるオムニバスアルバムも数多くリリースされる中にあって、既に述べた1996年のレーピューとゾーウィントゥッというふたりのロックスターがコーバイン・タンズィンアルバムをリリースした頃からオリジナル曲重視の動きが始まります。レーピューのアルバムにオリジナル曲を提供したマウンマウンゾーラッやエーピューは、1990年代後半にバンドThe Antsを結成。欧米ロックのビルマ語カバーという従来のミャンマーロックに対し、コーバイン・タンズィンを重視してこの国のオルタナティブロックを先導しました。こうした流れの中で、2000年代に入ってノーノー、トゥーエーリンといった新時代の実力派アーティストが登場し始めます。また、女性歌手では、ピューピューチョーテイン、ニニキンゾーといったずば抜けた歌唱力を誇る実力派が登場し、歌謡界を牽引して行きます。そして2011年、軍事政権が終わり、2012年に音楽アルバムの事前検閲が廃止され、ミャンマー歌謡界は新時代を迎えます。