現代ミャンマー人の中でもっとも有名な人物といえば、アウンサンスーチーさんでしょう(ミャンマー式に言えばドー・アウンサンスーチー)。日本の新聞などでは、こうしたミャンマー人名は一般的に「アウン・サン・スー・チー」という具合に、音節ごとでナカ点を入れて表記されます。以前、毎日新聞で彼女の著したものが連載されていた時には「アウンサンスーチー」と表記されましたが、これは例外的な配慮でした。
非欧米の人名表記に関して(これだけではないが)日本のメディアは、最近の例でいえば「オサマ・ビンラディン」のときでもそうでしたが、常に欧米を模範としているようです。つまり基本はローマ字表記。カタカナで表記する際には、単純にローマ字で分かち書きする部分に「ナカ点」を入れる。だから、「Bin Ladin」は当初「ビン・ラディン」と表記されていました。ミャンマー人名のカタカナ表記にナカ点が入るのも、これと同じ理由。ただ「ビン・ラディン」については、欧米メディアがこれを姓のように扱っているとの理由で、あとになってナカ点を抜くようになりました。しかしアラビア語の意味ではむしろ「ビン・ラディン」とする方が正確ですから、日本のメディアの姿勢は、あくまで欧米が基準ということなのでしょう。
名前はひとつの固有名詞ですから、姓や名、あるいはミドルネームの類といった、ある程度意味のあるまとまりで区切ってナカ点を入れるのがよいのではないかとここでは考えています。その意味で、ミャンマー人の名前は基本的に「名」だけで「姓」がありませんから、そこにナカ点は入れないという方針をとります。ただ、こうすると長いカタカナ表記になってしまって読みにくいという字面の問題が生じます。しかし、そもそもカタカナ表記に無理は付きもので(こちらを参照)、それはたとえばタイ人の名前についても同様でしょう。たとえば、官位を受けた者に与えられる欽賜名(王から下賜された名前)、あるいは中国系タイ人の姓などは、かなり長い表記となる場合がありますが、それをカタカナ表記する際、字面が良くなくても、ナカ点を入れるという措置は一般的にとられていません。(たとえば初代首相である「プラヤー・マノーパコーンニティターダー」の欽賜名「マノーパコーンニティターダー」の部分)
近年ミャンマーでは、特に芸能界の女性の間で長い名前が一種の流行となっています。歌手のトゥンエインドゥラーボーや女優のエインドゥラーチョーズィンなどなど。名前のみのミャンマー人名は、もちろん常識的限度はあるものの、いろいろな言葉を組み合わせてかなり長くすることが可能です。こうした長短のみならず、ミャンマー人の名前はいろいろな意味で柔軟性に富むと言っていいでしょう。それは、記述のように、敬称が名前と一体化するということも含みます。そして興味深いのは、「肩書き」も一体化してしまうということです。
たとえば、以前アメリカ在住でのちに帰国した男性歌手で、バマーピー・テインタンという人気スターがいます。もともとの名前は「テインタン」。これはミャンマーではよくある名前で、実際、同名の有名歌手がもうひとりいます。ゆえにその区別と対抗という意味で、彼は「ビルマ国」という意味の「バマーピー」を肩書きとし、それを一体化させた「バマーピー・テインタン」を自分の名前としたのです。このような名前はひとつの固有名詞ですが、国名についての変更が政府によってなされてからは(詳細はこちら)、「ミャンマーピー・テインタン」と呼ぶのが一般的となっています。つまり個人の名前が社会情勢によって変化してしまったというわけです。そうしたことがある一方で、たとえば「ギータルーリン・マウン・ココ」というベテラン音楽家の場合は、逆のケースとも言えるでしょうか。この「ギータルーリン」は「音楽青年」という意味。政府のアドバイザーを勤めるほどの大御所となったこのベテラン音楽家は、もはやまったく「青年」ではありません。しかし名前の一部となっている「ルーリン(青年)」が「ルーヂー(成人、指導者)」に変わることもないのです。ただし真中の「マウン」は敬称であるため、この部分は相応の年齢・地位によって「ウー」と変化し、よって現在は「ギータルーリン・ウー・ココ」という名前になっています。
*
ミャンマー人の名前は、単に「ソー」や「テッ」といった短いものから、肩書きや敬称などと一体化して長くなったものまでさまざまです。いずれにせよ基本は「名」だけで「姓」がありませんから、親子間で名前の共通部分を持たないことになります。ただ実際のところでは、親は子に対して、自分の名前の一部を入れ込んで命名することが多いようです(一部ではなく、アウンサンスーチーさんのように親の名前(「アウンサン」)」が全部入れ込まれる場合もある)。また、「名」だけですから、たとえば結婚によって名前が変わることはありません。ただ、それによって一方が他方の「家」の一員となるという感覚は、しっかり存在しています。ちなみに家に入るのは必ずしも女性とは限りません。傾向として女性が多いというは言えますが、そのあたりは比較的ケースバイケースです。また家族の絆について言えば、姓というものが存在しなくても、これは日本以上に強いものがあります。