バマー・ムスリム

ビルマについての統計やデータといった類のものを見ると、この国におけるムスリムは、インド系もしくは中国系の住民ということになります。しかし実際のところ、ビルマ人、すなわち「バマー・ムスリム」が一定程度の割合を占めています。

バマー・ムスリムは、「古くからビルマに居住し、ビルマ人としてのアイデンティティーを持っているムスリム」という具合に定義づけることができます。その存在は、ビルマにおいて決して小さなものではありませんが、明確に認知されているとは言い切れないようです。というのも、この国では一般的に「ビルマ人」といった場合、通常それは「仏教徒」を意味するからです。そうした状況の中で、バマー・ムスリムは、どうとらえられているのでしょうか。

宗教的多数派であるビルマ人仏教徒は、ごく一部の相当進歩的な識者を除き、中国系以外のムスリムを基本的にすべて「カラー」とみなしています。カラーというのは一般的に「インド人」を意味することば。つまり、ビルマ系とインド系とを区別しないのです。仏教徒にとってバマー・ムスリムはインド人であり、ビルマ人として認めていないと言っていいでしょう。この国に関するデータは、そのあたりを反映しているようです。

ビルマ民族は太古、北方より現在の地域に南下してきたとされています。その人種的・文化的な流れを受け継いできた子孫たちを民族集団としての「ビルマ人」と考えるならば、バマー・ムスリムは、それからはややはずれるでしょう。なぜなら彼らの多くは、ビルマにイスラム教をもたらしたインド人やその他の異民族と、家系的に多かれ少なかれ何らかのかかわりを持っていると思われるからです。実際、外見的な部分でインド系を思わせる容姿のバマー・ムスリムは少なくありません。ただし、ビルマは多様性に富んだ国です。そうした人種的な部分に重点をおいてしまったならば、仏教徒ビルマ人ですら、一定程度インド人ということになってしまいます。つまり、インド系とおぼしき容姿の仏教徒ビルマ人というのも、決して珍しくないということ。したがって、確かに目鼻立ちでもってこの種の判断をする向きはありますが、さまざまな民族が共に暮らすこの国の状況下において、外見というものを民族定義の主要な一手段とすることには、かなりの無理があると言えます。すなわち、「ビルマ人」というものの定義として、「人種的な流れを受け継いできた者」という点はかなりあいまいな要素だということです。以上のことから、バマー・ムスリムをビルマ人としてとらえるか否かを考える際には、まず第一に「ビルマ人とは何か」をはっきりさせておく必要があります。これについては、「ビルマ人としてのアイデンティティーを持っている者」という点が筆頭にあげられるでしょう。また宗教面で何らかの定義づけをすることは可能でしょうか。つまり、この国で一種の社会通念となっている「ビルマ人=仏教徒」というとらえ方についてです。はたしてこれを民族の定義としてみなすことはできるのでしょうか。

ビルマの宗教には、仏教とイスラム教を除いたところで、たとえばキリスト教があります。その信者の大部分は少数民族のカチン人やカレン人などですが、ビルマ人に対しても、布教や婚姻などによる改宗がはかられています。この国では、イスラム教の布教活動は、ある意味で民主化勢力の政治活動以上に不可能と言えますが、キリスト教については、特別な制限はないようです。そうした状況下で、仏教徒ビルマ人がキリスト教に改宗した場合、どうなるか。「非仏教徒」となったことにより「非ビルマ人」になるのか、といえばそんなことはありません。つまりキリスト教ビルマ人というのは、仏教徒ビルマ人にとって認知しうる存在なのです。ゆえに、その布教活動も可能なのでしょう。では、もしこれがイスラム教への改宗であったならば、「元」仏教徒ビルマ人はどうなるか。人種的にどうであれ、その改宗の事実によって、その者は以後「カラー(インド人)」とみなされるのです。

こうした点から考えると、「ビルマ人=仏教徒」が民族の定義として成立しているとは言い難いようです。そこから見出せるのは、仏教徒ビルマ人の間に存在する対ムスリム感情のようなもの。パンデー(中国系ムスリム)以外のムスリムをすべて「カラー」とし、そうしたムスリムを排除する「ビルマ人観」です。そしてそこから言えるのは、仏教徒ビルマ人がムスリムをほぼ民族的な存在としてとらえているということ。宗教は民族を定義づける要素のひとつですから、その意味で、彼らの民族観はとりわけそうした部分に重きが置かれているようです。
仏教徒ビルマ人は、基本的にこうした姿勢ではありますが、実際のところ「バマー・ムスリム」の存在についての認識を欠いているというわけでは決してありません。つまりそこには、多分に心情的なもの、すなわちイスラム教への嫌悪からその存在を認めたくない、という感情が先立っていると言っていいでしょう。またバマー・ムスリムの側も、家系やその他、歴史的な点などをふまえて「ビルマ人」としての民族的アイデンティティーを持ちながらも、彼ら自身が「ビルマ人」という言葉を「仏教徒」と同義的に使ってしまっている。仏教中心社会の中でのバマー・ムスリムというのは、そんな微妙かつ曖昧な部分を伴った存在として、政治的な翻弄を余儀なくされながらこの国で生きている、と言っていいのではないでしょうか。

「カラー」について
「カラー」は元々「外来者」という意味。西アジアやヨーロッパなどの人々をも含むかなり漠然としたことばでした。それが「インド人」と同義化していった背景には、「外来者」の大半がインド人であったという事情が考えられます。同様の形はタイ語においても見られ、「来訪者」を意味する「ケーク」が一般的にインド人を指すことばとなっています。
なお、現在においても「カラー」は、語源どおり中東のアラブ人あたりまでを含まむようではあります。また、このことばには、やや差別的なニュアンスを伴うことがあるようです。