■名声を予期させる少女スターの誕生

本名スウェエーミン。1962年2月13日、メースウィは女優ミンミンキンの四女として生まれました。この日はちょうど独立の父アウンサン将軍の誕生日。ビルマ人の誰もが知っているこの特別な日に生まれたことは、偶然の一致とはいえ、後の名声を周囲の者たちに予期させたと言われています。

彼女はそんな予期に応えるが如く、歌の才能に秀でた少女でした。ビルマでは学校教育の中に音楽の授業はありません。そうした中で、彼女には音楽の英才教育が施されます。こうして8歳の時から学んだ伝統音楽は、その音楽的才能を開花させる上での大きな土台となりました。

歌手でもあった母親は、毎年行なわれるたいへん有名な寺祭りに参加していました。メースウィはどうしてもこの祭りを観に行きたかったそうです。当時12歳だった彼女は、自分を連れていくよう、しつこくせがみました。娘を大きく育てたい母にとっても、これはひとつの機会だったのでしょう。条件としてステージで歌うことを約束させます。こうして祭りへ行けることとなった彼女は、歌うことが大好きな恐いもの知らず。大勢の人前で堂々と歌って見せました。これがなかなかの評判で、その後2年連続でこの寺祭りに参加。そんな彼女に業界も注目し始めます。そして3回目の出演後、大手レコード会社から契約の話しがあり、14歳の彼女はメースウィという芸名でデビューを果たしたのでした。

■卓越した歌唱力の実力派大スター

こうして芸能界の一員となったメースウィ。そんな彼女を大女優の母親も有形無形のバックアップでもりたてます。ゆえに典型的二世タレントと言えるでしょう。しかし、この国の芸能界では二世タレントというのはむしろ当たり前。親のつながりなしに独力で名声を獲得した大スターは、かえって少ないとも言えます。この国に限ったことではありませんが、力のある親と金があれば、ある程度のことはできます。しかし、メースウィの場合について言えば、彼女の名声は単なる親の七光では決してありません。音楽的な鍛練と実践とに裏打ちされた実力が、才能ある彼女を根底から支え、名声へと導いていったのです。

デビュー以来、彼女はビルマ歌謡界におけるさまざまなスタイルの音楽を経験し、その卓越した歌唱力は幅広いものとなり、さらに磨きがかかっていきました。そうしてリリースされた数多くのアルバムの中には、伝統歌謡からロックに至るビルマ・ポップスの全体像が凝縮されているといっても過言ではないでしょう。それぞれのスタイルに応じた彼女の見事な歌いこなしは、単に「上手い」歌手の域を超えています。つまり、メースウィという歌手は、さまざまなスタイルの曲を歌いながらスタイルというものに振り回されることなく、むしろ、それを通して彼女だけが持つオリジナリティーをさまざまな角度から見せてくれる。そんな唯一無二の独自性にあふれたスケールの大きな歌手なのです。

■自分の歌で人々の心に「なごみ」を

このようにどんなスタイルでも歌いこなす彼女ですが、個人的にはカントリー調で感情を込めて歌える曲が好みだそうです。ちなみにロックはあまり好きではないとのこと。そんな彼女は、アルバムづくりの際、スタイルに対するこだわりを特に見せません。これは自身の音楽に対する考え方によるものです。

この国の音楽業界では、新人歌手の場合を除いて、基本的にレコード会社との専属契約という形はほとんどとられません。また彼女ほどの大物ともなれば、自分の気に入った企画以外は断ります。例えばそうした際、スタイルはその判断基準の中心ではないのです。音楽は確かに自己表現方法のひとつです。メースウィという歌手のオリジナリティーも、歌を通して表現されます。しかし歌手としての彼女が最も大切にしていることは、音楽によって人々の心がなごむこと。これが、彼女の音楽に対する考え方の根幹なのです。

ポップス界の女王メースウィはまぎれもない国民的スター。そんな自覚のもとで歌う彼女の念頭にあるのは、この国に住むごく一般的な人々。そしてどんな音楽で心がなごむかは、人によってそれぞれ違います。だからこそあえてスタイルにはこだわらず、曲や歌詞が良ければどんなものにでも全力を尽くして取り組む。聴く側があってこその歌い手として、人々の心を大切にする彼女の音楽づくり。こうした姿勢には、この国ゆえの意義深さがあると言えるでしょう。