東京のミャンマー人コミュニティ~リトルヤンゴンの成り立ち

高田馬場がミャンマー人コミュニティの中心地となって25年以上経ちます。なぜ高田馬場なのでしょうか?

日本で暮らすミャンマー人は、2022年12月現在、5万6239人で、ひとつのコミュニティを形成するに至っています。

こうした動きの始まりは1980年代後半と考えられます。当時、在日ミャンマー人全体の3分の1程度が留学生で、その多くはまさに苦学生そのもの。とりわけ苦労したのは、住居探しでした。そんな彼らにとって最も頼れる町が西武新宿線の「中井」駅近辺だったのです。

80年代末になると、88年の民主化運動を弾圧して成立した軍事政権下のミャンマーから、政治的な理由などによってさまざまな方法で多くの人々が日本にたどり着くようなります。その多くは都内に暮らすようになり、そして頼れる場所はやはり「中井」駅近辺でした。すでに在日ミャンマー人の間ではビルマ語で「ミャンマーユワー(ミャンマー村)」と呼ばれていた中井は、90年代に入るとミャンマー料理店や輸入雑貨店が存在する本格的なミャンマー人街となり、日本語では「リトルヤンゴン」と言われるようになりました。一部のマスコミに取り上げられほどのリトルヤンゴン・ナカイでしたが、のちにそれが高田馬場に移り、現在至っているのです。

このような東京のミャンマー人コミュニティ。その動きは、以下の4つの時期に分けて捉えることができます。

■第1期(1980年代後半~1990代中頃)・・・リトルヤンゴンの誕生~中井
■第2期(1990年代後半~2008年頃)・・・リトルヤンゴンの全盛期~高田馬場
■第3期(2008年頃~2019年)・・・リトルヤンゴンの縮小とコミュニティーの変化
■第4期(2020年~現在)・・・コロナ禍と本国のクーデターの影響

(2023年10月31日 加筆・改変)

戸山公園でのダヂャン(水祭り)=2019年4月