■第1期(1980年代後半~1990代中頃)
リトルヤンゴンの誕生~中井
今でこそ高田馬場はミャンマー人街としての認知が少しづつ広がっていますが、実はここはいわば2代目。初代リトルヤンゴンは中井駅付近でした。
日本で暮らすミャンマー人は、1980年代後半に入って、人数的にまだあまり多くはなかったものの、この頃から増えてきます。当時の主な在留資格は、留学、就学、研修、日本人の配偶者といったところ。また、観光で来日し、途中でビザを就学に変更するケースも少なくなかったようです。これはビザが切れる前に日本語学校へ入学するということです。当時の入管制度のもとでは、一旦帰国することなしに就学へ切り替えることでき、学校も随時入学できるところがあり、このようなことが可能だったようです。そのような留学生(就学)生にとっては、まずはとにかく住居の確保が最初の難関でした。当時、外国人にアパートなどを貸してくれる不動産屋はなかなかありません。しかし、そんな時代に中井駅付近には、ただ同然でアパートの部屋を貸してくれる日本人がいたのです。
この日本人は、以前にミャンマー人から大変お世話になったことがあり、複数所有するアパートをミャンマー人にいわば開放しました。住居に困っている人たちにとってはまさに「駆け込み寺」。大勢のミャンマー人が集まって住むようになり、ここは「ポンヂーチャウン(僧院)」と呼ばれるようになりました。もちろん実際は僧侶のいる仏教の僧院ではありませんが、ミャンマーの僧院のように困ったときに頼れる場所となったのです。
ちなみに、中井がリトルヤンゴンとなった理由について「ここにミャンマーのお寺があったから」と認識する向きが、中井に関心のある日本人やマスコミの中にあります。しかし上述のとおり、ここはいわゆる駆け込み寺で実態はアパートです。ただ、中井に住むミャンマー人たちはここを「ポンヂーチャウン(僧院)」と言っているので、それを日本人が本当の僧院だと勘違いして、言葉だけが独り歩きしてしまい「お寺があったからだ」となってしまい、ネット上にもそのような記述もあり、誤った認識が広まってしまったようです。ちなみに中井に本当のミャンマー寺と言える「ナカイパヤー」ができたのは、もっと後の90年代に入ってからです。おそらく後年のナカイパヤーと駆け込み寺のアパートが混同されてしまったのでしょう。
話を戻します。1980年代後半になると、東京に来たミャンマー人の多くは中井に集まって住むようになりました。
中井の駆け込み寺で暮らすミャンマー人留学生は、まさに苦学生そのもの。家族と離れて学ぶ場合、日本人の学生なら親から仕送りされるのが当たり前ですが、ミャンマー人の場合は、それどころではありません。アルバイトで自分の学費を捻出するだけでなく、親へ仕送りをするのです。学校へ通う時間帯の前後で計ふたつの仕事を入れるという、学業と仕事の毎日。日本に来るミャンマー人はそもそもエリート層が多いのですが、当時は特に優秀な人たちばかり。自尊心の高い彼らは、どちらも対しても手を決して手を抜かず、懸命に学び、働きます。そんなミャンマー人のひた向きな姿に接した中井の日本人の中には、頑張っているミャンマー人を応援しようという気持ちが芽生えてきたのでしょう。不動産屋の中には、簡単に部屋を貸してくれたりする業者も出てきました。またミャンマー人が好むような珍しい野菜をわざわざ仕入れてくれる八百屋などもあり、要所要所に親切にしてくれる日本人がいたようです。
ミャンマー関係では、普通あり得ないような偶然がよく起こりますが、とにかく中井は、稀有なめぐりあわせでリトルヤンゴンとなったと言えるでしょう。この町には、たいへん親ミャンマー的な日本人が偶然何人もいたことから「駆け込み寺」ができ、ミャンマー人にとって住みやすい町となっていったのです。たとえば、ミャンマー人の保証人になるなどしていた地域の広報誌「おちあい」の発起人代表の故菅野廉一氏は、旧日本軍の退役軍人で、駅前で営んでいた写真館で古いビルマの写真を展示。そして菅野氏とつながりのある、ミャンマー人から大変世話になったという方が駆け込み寺アパートのオーナー。そしてその同業者の中には、他にもミャンマー人に大変好意的な方々がおられたようです。
また駆け込み寺には、本国への宅配業を営んでいるミャンマー人夫婦も住んでいて、同胞の世話役を担っていました。在日ミャンマー人にとって、閉鎖的体制の母国への物流は容易ではありません。ミャンマー人にとってこうしたビジネスは、同時に生活支援ともなっているのです。その夫人はこのアパートでボランティアの日本語教室を開くようになり、そうした諸々のことから、ここが核となって中井にミャンマー人コミュニティーが誕生していきました。
ただこの駆け込み寺アパートにも当然物理的な限度があります。中井がリトルヤンゴンと言われるほどの存在となっていく背景には、ここだけでなく、他にも業者を通さず部屋を貸してくれるアパートのオーナーがいたり、ミャンマー人に好意的な不動産屋が存在したという状況があります。偶然や縁、そしてミャンマー人と中井の住人との良好な人間関係が相まって、ミャンマー人が集まって暮らすアパートなどが増え、そうした建物は「シュエタイッ(ミャンマー人屋敷)」と呼ばれるようになります。80年代終わりころの中井に住むミャンマー人の規模は200人ほどでは、と80年代当時を知るミャンマー人が推定するほどです。
そして1988年、本国で大規模な民主化運動が始まりました。それを弾圧する軍事政権の成立によって、中井も影響を受けます。
80年代末から90年代にかけて、政治的な迫害から逃れるためなどのさまざま事情で日本に入国するミャンマー人が増加し、その大半が東京都内で生活するようになります。そして、生活の糧を得るための職場は主に新宿駅周辺の飲食店などであったため、そこへの通勤で便利な西武新宿線や山手線といった駅の近辺が、ミャンマー人の居住地域となっていきました。具体的には下落合、沼袋、大塚、駒込などですが、中でもすでにミャンマー人街となっていた中井にとりわけ多くのミャンマー人が集まりました。
当時の日本はバブル崩壊の時期で、地価が下落していたものの、ミャンマー人にとってまだアパート賃貸契約は決して容易でありませんでした。そうした点で最も住みやすかったのが中井だったことは言うまでもありません。
こうして1990年代に入ると、中井に住むミャンマー人はさらに増え、ついに駅からほど近い妙正寺川沿いのごく平凡な住宅街の中には、ミャンマー料理店や輸入雑貨店などが開店しはじめました。こうして中井はマスコミにも取り上げらえるほどの存在となり、内外タイムス紙の記事(1992年7月13日)の中で、中井はすでに「リトルヤンゴン」と言われていたと記されています。もちろんミャンマー人はもっと以前からここを「ミャンマーユワー(ミャンマー村)」と呼んでおり、その翻訳語として「リトルヤンゴン」が、中井の存在を知るほんの一部の日本人の間で言われるようになったと考えられます。(※2023年10月31日加筆・改変)
こうして1990年代に在日ミャンマー人の活動は、この中井を中心とする西武新宿線沿いの他に、山手線の新大久保駅や大塚駅周辺あたりで活発となってきます。中でも新大久保駅周辺はミャンマー人コミュニティー史では重要な地。中井に先立ちここで初めてミャンマーの料理店ができ、また本格的な輸入雑貨店が初登場したのもこの周辺でした。
1991年、まず新大久保でミャンマー料理店「ヤッタナー」が開店(※注)。日本人とビルマ人のご夫婦が経営するこの店は、客層はミャンマー人が中心ですが、日本人も視野に入れたエスニック料理店路線もとっていたようで、日本人が来店すると、オーナーが直々に料理について丁寧に説明してくれました。そしてこの頃から、客層の想定をほぼミャンマー人のみに絞った感じの店が、中井、新大久保、大塚、歌舞伎町あたりに、日本人の目にほぼ触れることなく開店していきました。
※注)当時を良く知る古参の在日ミャンマー人の間では、日本初のミャンマー料理店は秋葉原の「バガン」が最古という説もある。
コミュニティ内での民族的な伝統行事も、91年から開催されるようになります。ミャンマー人にとっての最大の伝統行事は新年を迎える「ダヂャン(水祭り)」。これは隣国タイの水かけ祭り「ソンクラーン」と同様の行事で、日本ではビルマ青年ボランティア協会が中心となって在日タイ人のソンクラーンに参加する形で開催されるようになりました。そして3回目にあたる1993年、タイとの合同ではなく、単独でのダヂャン(水祭り)が同協会によって文京区の駒本小学校で開催され、以来、主催者に関しては紆余曲折があるものの、現在まで継続しています。(※2019年6月7日加筆)
こうした行事開催の動きの中から、92年11月にウ・ウィンシュエ氏をリーダーとする民族舞踊団「ミンガラードー」、そして翌93年にロックバンド「リバー」(のちのブラックローズ)が結成され、西武新宿線沿線の野方スタジオで練習を重ねて活動を開始。この頃から同様のグループがいくつか結成され、コミュニティ内での文化的イベントの開催が増えていきました。その会場としてよく利用されたのが、南大塚ホールと豊島公会堂(※2016年2月閉館)で、在日ミャンマー人にとっては馴染みのホールとなりました。
イベント開催の背景には、東京で生活するミャンマー人の増加があり、それに伴ってミャンマー産食品などの生活必需品に対する需要が高まり、94年には、初の輸入雑貨店「フジストアー」が新大久保駅付近に開店しました。
ミャンマーからの雑貨輸入自体は以前から行われていましたが、それらは「マンションの一室」における極めて限定的なものでした。しかしそこに高い需要があると判断したマウンマウン氏が初めて「店舗」を構えて創業。食料品などの日用雑貨、音楽テープ、レンタルビデオなど、豊富な品揃えとサービス精神あふれる接客が好評で店は大成功。それ以降、同種の輸入雑貨店は増えていきました(マウンマウン氏は98年に帰国したが、フジストアーの名を引き継いだ店は現在も営業中)。
このように新大久保はミャンマーの料理店・輸入雑貨店発祥の地で、のちに大久保通りにはミャンマー料理の伝説的名店「シュエピータン」や雑貨店「マハー」などが店を構え、ミャンマー人街的要素を備えていきました。ただ、ここはとにかく多文化の町。韓国、中国、タイなどのヒトやモノがひしめく中で、ミャンマーはその小さな一角にすぎません。その意味で言えば、ミャンマーの存在が際立っているのはやはり中井です。生活するミャンマー人、そして1990年代に入って次々と開店した関連の店舗や妙正寺川沿いのアパートの2~3階にできたミャンマー僧常駐の僧院や仏像(ナカイパヤー)の存在は、如何にこの町がリトルヤンゴン・ナカイとしてミャンマー人にとってのよりどころとなっているかをあらわしています。この時期に開店した店としては、ミャンマー人コミュニティの世話役サッポロさんの営むミャンマー料理店「トップ」、ミャンマー料理店の「シュエミンダミー」や「ザガワー」、輸入雑貨店「シュエガンバウン」や「ピース」などがあります。
こうして在日ミャンマー人のコミュニティーは、1980年代後半に中井から形成され始め、88年に始まる本国の政治的苦難が転換点となって91年頃から様々な活動が具体的に開始され、90年代前半にはひとつのコミュニティとして機能するようになったと言っていいでしょう。そして人々は、民主化運動団体との連携を軸にしながら、同時に絶妙なバランスを保ちつつ、90年代後半あたりからは本国から芸能人を招聘して来日公演を開催するなど、活動を活発化させていきました。(2023年10月26日内容の表現変更)