■ミャンマーで学べなかったことを学んだ

落合さんとの出会いは、生まれ育ったメイッティーラの僧院だった。高校教師だった落合さんは、休みごとにアジアを旅する中で、ミャンマーという国に魅せられ、ミャンマーの文化や音楽について調べながら、毎年、メイッティーラの僧院を訪れていた。当時、この僧院で英語と日本語を学んでいたマヘーマーさんはここで落合さんと出会い、結婚を機に来日を果たすことになる。

マヘーマーさんが英語と日本語を学んでいた僧院の寺子屋語学教室。ここでの経験は、マヘーマーさんにとってJMCCを創設する原点となった。
マヘーマーさんは、学んでいた寺子屋における一番弟子。僧院の2階ではこのように師範代を務め、子どもたちに日本語を教えていた。

来日当時のエピソードをたくさん聞かせていただいたが、じわじわと感動する話ばかりだった。たとえば、高校教師をしながら落合さんは、日本語学校に通うマヘーマーさんに、毎日、弁当を作って持たせてくれたという。「キティちゃんの水筒にコーラを入れてくれて」。夏は凍らせて入れると、学校ではちょうどシャーベット状になっておいしかった。マヘーマーさんと落合さんと私、3人で話しながら、「キティちゃん」という言葉がほほえましくて笑ったが、笑いながらその、丁寧に育ててこられた2人の愛情に心打たれた。夫であり、また母であり父であるような落合さんの支えのもとに、マヘーマーさんの日本暮らしは楽しいものだった。

その後、中央大学に入学。ミャンマーで学べなかったことを思う存分学んだ。日本人、留学生の友達もできて、楽しい4年間だった。その4年も、落合さんは、静かに、背後から、バックアップした。

袴姿で出席した大学の卒業式。時は就職氷河期。しかし、その苦労は、JMCC創設の原動力ともなった。

明石家さんまさんの「恋のから騒ぎ」をはじめ、数多くのテレビ番組に出演していたマヘーマーさん、大学時代からタレント業も行うなど、若くて美人な奥さまをもっていろいろ心配もあったのではと思うが、ふたりの愛情が揺らぐことはなかったし、ふたりを見ていると、支え合いながら、ミャンマーの家族も支援しながら、次々と人生の荒波を乗り切って来られたように思う。

象徴的なのが落合さんの早期退職だ。高校教師という天職にのめり込み、生徒たちと向き合ってきたが、考え抜いた末、定年まで数年を残して退職を決断。2018年にJMCCの専従となった。それはJMCCにとっての転機でもあった。