Zin Moe Waiさん(ズィン モー ウェイさん)29歳
21世紀マンパワー事業協同組合 勤務
※名前の表記は、ご本人のお申し出通りの記載なので、本サイトのカタカナ表記の法則とは異なる場合があります。
北千住駅前にある東京電機大学千住キャンパスの前で(2021年夏)

東京のリトルヤンゴン高田馬場の駅前。ミャンマー食材店が集まる雑居ビル・タックイレブンに行くと、近年、若いミャンマー人の姿を多く見かける。2021年2月1日のクーデター以降、母国での仕事に希望を見出せず海外を目指す人が多く、円安とはいえ、来日を希望するするミャンマーの若者も増えているという。

そんなミャンマー人の来日ルートのひとつが「技能実習生」だ。今回ご紹介するZin Moe Waiさん(以下ウェイさん)は、そんな外国人技能実習生の受け入れを支援する「21世紀マンパワー事業協同組合」にミャンマー語通訳として勤務する女性だ。21世紀マンパワー事業協同組合は、外国人の中でもミャンマー、ベトナム、インドネシアに特化した受け入れを行う組合で、中でもミャンマー人に関しては、2022年11月17日現在627人の受け入れ実績がある。日本で約3000の組合がある中でも特にミャンマー人介護人材についてはトップクラスの受け入れ実績のある組合だ。

日本の技術を学んで持ち帰ってもらうという名義の元、過去には人手不足を補う安価な労働力の確保策のように使われ低賃金が問題となったこともあった外国人技能実習制度だが、現在は法も整備され、最低賃金は守られている。

「大変だけどこの仕事が好き」と、今はにこやかに話すウェイさんの初めての来日は18歳になったばかりのとき。2011年3月6日。降り立った地は福島県いわき市だった。

■死を覚悟した、来日5日目の東日本大震災

同郷の先輩を頼って日本語学校に通うつもりで来たいわき市のショッピングモールの中で揺れは起こった。「日本ではよくあること」という先輩の落ち着いた態度に安心したのも束の間、2度目の揺れはものすごく激しく、何かにつかまっていないと立っていられないほど、そして長かった。あまりにも驚き、言葉も出ず、からだは動かなかった。すごく怖かった。

先輩に腕をつかまれ外に連れ出され、駅前の公園に避難したが、駅前のドーナツ店ではドーナツが店の外に飛び出し、エスカレーターは網のようにねじ曲がり、道はアスファルトにヒビが入り盛り上がっていた。「本当に映画のワンシーンのようでした」。

揺れがあるたびにその場にいる高校生たちが大きな声で叫ぶのがまた怖かった。原発の話をしている人もいた。このときのウェイさんはまだ日本語もほとんどわからず、何が起きているのかわからない。どうすればいいかもわからない。その日は小さい地震が続き、たくさんのヘリコプターが旋回していた。大変なことが起こっていることだけはわかった。

数時間でガスも水も出なくなり、日本語学校の指示で中学校に避難。そのときは東北だけの出来事とわからず、日本全体で起きていることと思い、死ぬんだと思い、先輩に電話を借りてヤンゴンの両親に電話をかけた。泣きながら。「たぶん帰れないと思うから」と。

来日してすぐのころのウエイさん。友人の家の前で

今はようやく笑って話せるようになったが、つい最近まで地震の話をすると鳥肌が立って涙が出て言葉が出なくなることがあったという。

日本語学校は2ヶ月休校となり、東京の創価大学女子寮に避難したのち、ミャンマーに帰国した。もう日本に戻ってこなかった留学生もいたし、おばあちゃんには反対され、留学に行くにしても他の国に、と言われたが、自分はケガもしていないし、決心したことだからと2ヶ月後の5月6日、いわき市に戻った。

■日本を目指した理由

そもそもウェイさんが日本を目指したのは「自立したい」という思いからだった。ミャンマーでは女の子には親が厳しく、逆に言えば子ども扱い、たくさん面倒を見てもらい、高校を出ても1人でバスに乗るのも怖いくらい「自立できていなかった」。ミャンマーを出たいと思い、候補としてはシンガポール、イギリス、日本があったが、英語より日本語の上達の方が早く、日本語の言葉や発音も好きだったこと、安全な国で、先輩もいたことなどから日本を目指した。

高校卒業直後、ヤンゴンで
シュエダゴンパゴダで

2013年「外国人による日本語弁論大会」出場時の弁論タイトルは「ルバワトーミンカレー(生意気な女の子)」。ミャンマーでは、医学部の合格点が男子450点、女子500点という日本では裁判になりそうな女性差別がまかり通り、女性はお酒はご法度、夜ひとりで出歩くことはありえない、恋愛において告白するのは男性のみ、そんな慣習に違和感を覚えていたウェイさんが日本に来て感じたカルチャーショックと、今感じている自由を弁論した。この弁論は地方大会を勝ち上がり、全国大会に出場、見事3位の主催団体特別賞をとった。

「人と話すのはとても好きだけれど人前で話すのは苦手、リーダーになるのは苦手」というウェイさんに体験してほしいと、弁論大会を勧めてくれたのは、当時の日本語学校の担任の先生だ。「とてもいい先生で」背中を押してもらってチャレンジした。

日本を目指し、大きな災害に遭っても日本を選んだウェイさんの心意気が、この5分の弁論から見える。

2013年、第54回外国人による日本語弁論大会で3位に入賞!
■第2のふるさと福島

東日本大震災に遭遇したことでウェイさんの日本留学は少し方向が変わった。

当初は2年間日本語を学んだら東京に出てくるつもりだったが、震災があったことでさまざまな小さなボランティアに携わることになる。「避難所のお手伝いをしたり、子どもたちと遊んだり」。田舎の方だったこともあり、想定より地域の日本人とコミュニケーションをとる機会が多くなっただけでなく、「ここで自分にできることがある」と感じるようになった。福島の美しい自然も気に入って、大学も、いわきにある東日本国際大学に行くことに決めた。

大学に入ってからも、大学がバスを出してくれて、福島県内のあちこちに行った。「外国人なのにここまでやってくれるのかと言われて感謝されて。小さなことをやって皆さんが笑顔になってくれるというのがすごい楽しかったんです。おじいちゃんおばあちゃんや小さい子どももいて」。震災がなかったらそこまで長くいわきにはいなかったと思うとウェイさんは言う。

留学1年目の学園祭で。ミャンマーの衣装を着でミャンマー文化を紹介した

来日費用は親が出してくれたものの、日本での生活は自分でまかなわなければならなかったウェイさん、奨学金をもらいながら、アルバイトもしながら、ボランティアにも積極的に携わり、大学生活を過ごした。「4年間すごく楽しかったんです」。4年生のときはイギリスに2ヶ月の短期留学にも行った。

楽しかったイギリス留学
タンリン大学で
卒業式の日。母も来てくれた

卒業後、ミャンマーに戻る道もあったが、留学から戻って日本にもう少しいたいという気持ちが強まり、奨学金をもらっていたロータリー米山記念奨学会でお世話になった方の経営する「常磐共同ガス」に就職。日本語学校、大学、そして就職と、計8年をいわき市で過ごした。

「私はヤカイン族で、ヤカイン州のマナウン島で生まれましたが、8歳でヤンゴンに移って10年、日本に来て12年目になります。第2のふるさとといえば私の中ではヤンゴンより福島。18から26まで8年いましたから。忘れられない思い出も、いい思い出も、いろんな経験をしたところですね」。

福島県相馬市での乗馬体験。社会人1年目のころ

仕事は楽しくて、給料もボーナスも良かったし、ずっといわきにいたい気持ちもあったが、東京にミャンマー人の彼氏ができたこと、そしていずれミャンマーに関わる仕事をしたいと思っていたので、都市ガスの会社ではかなわないことから、決心し、東京に移ったのが就職から2年後、26歳のときだ。

社長もウェイさんの思いを聞いて納得してくれたが、「ダメだったら帰って来ていいよ」とあたたかい声をかけてくれた。

奨学金も就職もお世話になった米山ロータリークラブとは今もつながりが続いている。写真は奨学生体験発表会。学友として参加し司会を担当した
■日本人相手に電話クレーム対応も

ところで、常磐共同ガスでの仕事を聞いてちょっと驚いた。

ウェイさんの現在の日本語は完璧で、大学に入る前に日本語2級(N2)を、大学3年生のときに1級(N1) を取得しているとはいえ、常磐共同ガスで配属されたのは本社総務部の料金係。まず、外国人はウェイさん以外、1人もおらず、仕事内容は日本人と全く同じだ。明細書を作ったり、検針スケジュールをソフトを使って管理したり、銀行対応は良いとしても「電話を受けたり、ガス料金を払えないお客様に対応したり、リフォームの注文を受けたり、クレームの電話対応もありました」。

最初の半年は本当に大変だったという。それまでは顔を見て話すことはあったが電話対応は経験がなかったので、専門用語や方言、そして引っ越して来た人や引っ越す人の住所が「ほんとわからなくて」、とりあえず平仮名で書いて後で調べたり、先輩に聞いたりして、暇なときは住所一覧をずっと見ていたという。読み方も難しかった。

リフォームの専門用語もむずかしい。自分達の部署の担当でない話も多いけれども、電話を受けている以上は欲しいものを全部聞いた上で折り返し電話する。「ですが、まったくわからない話も多くて。でも先輩がやさしくて、こういうときはこういう対応すればいいなどと教えてくれました」。

ガス料金を払えないのにクレームを言ってくる電話もあって、最初はまだ新人なので電話を代わってもらったこともあるが、半年経ってからは誰も代わってくれず、「払っていただけないならガスは開けられない」ときちんと説明し、いつまでに払ってもらえるかを聞いた。「高齢の方はたまに金額を見間違えて、多く振り込んで来られたりするんですけど、それでは処理できないので、銀行に問い合わせして調べたり、自分から電話して翌月に回しますと伝えたり」。いろんなことがあったという。

「そのときは今よりめちゃくちゃ日本語使ってました(笑)」。あんまり電話を受けすぎて、家に帰って友達から電話が来たときに「常磐共同ガスです」と言ってしまったことも一度ではない。でも、電話の対応の仕方や敬語など、「2年間たくさん勉強しました。卒業してすぐもし今の会社にいたら、今ほど日本語は分からなかったと思います」。日本人でも大変だと思える電話対応、クレーム対応にめげることなく、むしろその困難を糧にして、ウェイさんは成長してきた。

日本ではいろいろな経験をした。写真はラフティング体験
■実習生の来日に寄り添う仕事

東京に来るにあたっては、ミャンマーと関わる仕事、ミャンマー語を使える仕事を探した。働き始めてもうすぐ4年になるが、今の仕事はどうですかと聞くと「思ったより大変な仕事です」と言う。

外国人技能実習生を受け入れ日本企業とつなぐ「21世紀マンパワー事業協同組合」でのウェイさんの仕事は「通訳」にとどまらない。実習生来日の多い6〜8月は毎週のように出張もある。それも仙台くらいなら日帰り強行スケジュールだ。実習生を受け入れている日本企業は現在全国各地に100社以上あり、受け入れる実習生数はそれぞれ2、3人と少人数のことが多く、実習生が来日するとそのたびに受け入れ企業に同行する。

最近の日帰り仙台出張。新幹線の中で

海外から移住するのに必要な手続きは、会社との契約関係だけではない。役所、郵便局、電気ガス水道の手続き、寮について行って、ミャンマーとは異なる電化製品の使い方やゴミの捨て方を教え、さらにショッピングセンターに同行し、最低限の生活に必要な買い物につきあう。

「手続きのときにもらうマイナンバーカード、在留カード、保険証、年金手帳なども用途がわからず、年金手帳を捨ててしまう人もいる」。たくさんのことを猛スピードで教えて手続きして、「息切れします(笑)」。そんな日は帰宅したら「お腹がぺこぺこ(笑)」。年々増えているミャンマーからの実習生受け入れを、ミャンマー人通訳2人でこなしている。

■日本語ができれば大半のトラブルは乗り越えられる

さらに、実習生はそれぞれいろんな問題を抱えていて、個人的な相談も多いという。毎月1度、訪問して悩みを聞いているが、多くはそれにとどまらない。日本の会社にすぐに馴染めず、会社でけんかしてしまったときにはまた、トラブル対応に行く。通訳というより「一緒に考えてあげてアドバイスします」。

最初は実習生も信用してくれない。貧乏な中、借金して来日する子も多く、ウェイさんに対して「お金持ちのお姉さんにはわからないよ」と毒を吐く子もいる。でも、ウェイさんには何でもやってきたという自負がある。日本での生活のために、皿洗いもトイレ掃除も、飲み屋で酔っ払った客の相手をしたことも、酔客が吐いた汚れ物を掃除したこともある。うまくいかず、ふてくされる実習生には自分の経験を話し、嫌なことをどうやって乗り越えて来たのか話をする。

ウェイさんも来日当初は日本語がよくわからなかった。ミャンマーを知らない日本人から「ミャンマーって車とか走ってるの?」と馬鹿にされたとき、ちゃんと説明できなかった。それが悔しくて必死で日本語を勉強した。来日初期のイライラやトラブルは、日本語がわからないことからきていることが多いと、実習生に話す。日本語が不自由なくできれば、怖いことは何もなく、やりたいことが何でもできる。ウェイさんの話を聞いて、日本語の勉強の仕方をたずねて来る子もいて、そういう子には丁寧に教え、休日にボランティアでレッスンをしてあげることもある。

男性実習生は、建設の仕事は給与は良いが、現場で「馬鹿!」などと乱暴な言葉で叱られて落ち込んだり、差別されているように感じる人もいるという。自分も当初、差別されていたりいじめられているように感じることもあったが、日本語ができるようになってからは相手の怒る気持ちも理解できるし、違うと思えば説明ができる。3年経っても給与が上がらないとぼやく実習生には、「図面も読めない、日本語も十分理解できない、あなたが経営者だったらそんな人の給与を上げますか?」と問い、日本語の上達を促す。

逆に自分の方が知らないことが多いのだから、自分から挨拶して、教えてくれる人と仲良くなることが大事だし、仕事の帰り、疲れているといっても、日本人が運転する車の後部座席で寝ているのは礼儀に反すると教える。

また、「けんかはしてもいいけど、絶対に手は出すな」と伝える。どんなに腹が立っても、手を出すとすべてが終わってしまう。手を出さなければ、話ができる。

日本文化もたくさん体験。しめ縄体験
浅草寺で着物散歩
■嫌われてもいいからきちんと話をする

一方、介護の現場が多い女性実習生は、おじいさんおばあさんが好きという子が多く、仕事はとてもがんばってくれているが、生活を共にする同室のミャンマー人同士のトラブルが多いという。トイレが長いとか、夜、長電話していて眠れないとか、冷蔵庫の使い方、炊飯器がもう一つ欲しい、トマトが1個なくなったなんて電話がかかってくることもある。ウェイさんの勤務時間も関係なく、朝であれ夜中であれ、お腹が痛い、けんかした・・・いろいろな電話が日本全国からかかってくる。自分たちで解決するべきことでも、電話があったり、会社を通して連絡が来ることも。「そうしたら行くしかない」。

また、休日にミャンマーの店に出かけてカラオケではしゃいで、コロナにかかる子もいる。会社から「指導して欲しい」と連絡がくる。「まだ意識が低い実習生が多く、仕事に穴があいて、大変なことが起きていることがわからないんです」。以前は実習生に嫌われたくないという気持ちがあって強く言えないこともあったが、今は「嫌われてもいいからきちんと話をしよう」と思う。なぜなら、仕事がうまくいって、結果的に喜んでもらえる方がいいから。コロナにかかった実習生には、「自分のことばかり考えず、会社のことも考えて」と伝える。

ただ、「残業代を払ってもらえない」など給与に関する相談には、組合に担当者がいて、即対応する体制になっている。「昔は会社がパスポートを持っていたり、給料を払わなかったりトラブルがあったようですが、今は実習生は守られていると思います」。

企業はトラブルがあると組合にクレームを言うが、現場にいる通訳にあたられることもあって、理不尽を感じることもあるが、「今は日本語もミャンマー語も不自由なく、知識も身についてきて楽しい。この仕事は好きだなと思います」とウェイさん。

大変なことも多いけれど、泣きたい時は泣く。悩みがあったら食べる。悩みがあっても寝ると、朝起きるとポジティブに戻る。落ち込みは短い。「切り替えが早いと思います」。

毎年桜の季節には花見にも出かける
■休日は山で、思考から解放される

暇なのは好きじゃないというウェイさん。土日の休みの日には、ボランティアで日本語を教えたり、これから日本に来たい子たち向けに留学経験をFacebookで発信している。日本に早く行きたいからと日本語4級(N4)くらいで来日する子もいるが、日本に来たらやることが多くて、日本語を勉強できないので、せめて3級は取ってから来た方がいいなどとアドバイスする。

「来日してから、どうやってバイトを探せばいいのかと相談が来るが、4級だと自分でバイトも探せない、何もできないので」。そのほか、言葉の上達のために見た日本のドラマのこと、韓国ドラマも好きだが、大学在学中は封印して見なかった話、日本の四季や化粧品の話など、日本での留学生活、仕事や暮らしの日常をつづる。

<参考>ウェイさんのFacebook
Japan life by Yuri – 由梨

料理もミャンマーではしたことがなかったが、長く海外にいるなら料理ができないとストレスがたまるので、youtubeなどを見て作っているほか、最近は山登りにはまっていて、月に一度くらいミャンマー人の女の先輩といろいろな山に出かける。ウエアも買った。これまでに行ったのは、高尾山、群馬県の吾妻山、筑波山など、少しずつ遠いところにもチャレンジしている。

登ると疲れるが、山では次の一歩をどこに踏み出せばいいのか、岩をどうクリアするか、ただそれだけを考えて登る。それがいい。また、頂上に着いたら景色も綺麗だし、空気もすごくきれいなので、山にいる間は、誰のことも、仕事のことも考えず、ただ山に集中していている。

神奈川県の大山登山(2021年)
栃木県の三毳山(みかもやま)登山(2021年)

「電車に乗っていても、仕事のことや家族のこと、彼氏のこと、ミャンマーのことなどいろいろ考えてしまう方なので、何も考えない山の時間ができたことは大きいです。登山2−3回目くらいで、山にいると、山のことしか考えないってことがわかったんです」。今年は初めて雪山にも挑戦するそうだ。

草戸山登山(2022年)
■早くお金を貯めてフリーになりたい

今年、来日12年目となるウェイさん。永住権が取得できる条件が整ったので、申請する予定だ。もともとはミャンマーに帰国するつもりだったが、今は帰国しても日本企業もなく働く場もないので、日本に暮らし、行ったり来たりできるといいと思う。そして仕事をもう少しがんばりたい。外労士の資格にもチャレンジしたい。外労士の資格がとれると給与もアップする。

最後に将来の夢を聞いたらちょっとユニークな答えが返ってきた。「貯金はしているのですが、早めにもっと貯金して、将来フリーになって、ボランティア活動したり、ミャンマーの貧しいところに寄付したりしたい」。

ミャンマーの若者と話をすると、誰もが寄付やボランティアをさもあたりまえのことのように話すのに驚く。特別なことではなく、自分がごはんを食べるかのように「寄付」をし「ボランティア」をする。

ウェイさんも、今も弟への仕送りと合わせて、弟を通じて、毎月少額ずつ、ミャンマーで困っている人たちに寄付を続けている。「自分の負担にならない範囲で送っているので、これからも続けていけると思います」。

今の願いは短期の帰国。コロナもあって4年くらい帰国しておらず、来年あたり2週間の長期休暇をとって両親の顔を見に帰りたいなと思っているそうだ。

スキーは好きなスポーツのひとつ。写真は大学3年生のころ。生まれて初めて雪を見たのは、小学6年生のとき。日本に来て2日目だった。

<プロフィール>
Zin Moe Waiさん(ズィン モー ウェイさん)29歳
1992年ヤカイン州マナウン島で生まれる。10歳のとき、金のアクセサリーを製造販売する両親の仕事の都合でヤンゴンへ。高校卒業後18歳で日本へ。2011年3月6日に来日、日本語学校へ入学すべく福島に行くが3月11日東日本大震災に遭遇。学校の休校に伴い帰国。5月6日再来日。日本語学校の後、東日本国際大学卒業。福島で常磐共同ガスに就職。2019年東京へ。21世紀マンパワー事業協同組合勤務、現在に至る。

取材:2022.11.20 @Landabout東京(東京都台東区根岸3-4-5)
文 :舟橋左斗子(フリーライター)